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ブレインハッカー  第1章幻覚その1 [小説 < ブレインハッカー >]

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                                       「ブレインハッカー」       

第1章 幻覚

 頭が痺れる………額の汗を拭いながら三浦伸也は耳鳴りがしていることに気がついた。意識し始めるとその音は急激に増幅され、何匹もの蝉が一斉に鳴き出したように思える。子供の頃聞いた、裏山から響いてくるあの音のようだ。気にしなければ蝉がいることすら忘れているのに、聞こえ始めると裏山が蝉に占領されたように思えるのだった。微妙に高さの違う音が幾つも重なり、抑揚は相殺し合って直線的な高周波の連続音として聞こえる。
<きっとアレのせいに違いない> 
 伸也は頭の上に吊るされた照明装置から放射される不快な光線を見上げた。

 伸也の働く工場は西多摩の丘陵地帯にあり、従業員百人足らずのコピー機下請け製造工場である。ベルトコンベアーで動く三十メートル程の組立ラインが三本あり、先輩達はこのラインに名前をつけて呼んでいる。そのラインの上を、肉を剥ぎ取られた醜い骸骨のような機械がゆっくり動き、その骸骨に肉をつけ化粧を施し一人前に仕上げていく。皆が同じ仕上がりでなければならない。
 伸也はマスミと呼ばれているラインに張りついている。作業が簡単で誰でも<できる>からだ。とは言っても、一日に九千本のネジを天井からぶら下がったエアードライバーで締めつけ、モーターの軸にギアーを通してストップリングをはめるのはなかなかハードな作業量である。頭と手が別の生き物のようになって、初めて一人前の仕事をこなすことが出来るのだ。
 伸也が恨めしく見上げたアレは、傷を発見し易くする為の、特殊な照明装置なのだ。係長は何の害もなく安全だと言う。しかし伸也は会社はきっと何かを隠しているに違いないと思っていた。でなければこのポジションに居た者が次々に会社を辞める筈はない。きっと係長が、勤務態度の悪い自分を辞めさせるためにこの不愉快な場所に配置したと思っていた。
 伸也は作業中に何度か窓の外を見るが、それも今ではオートメーションのようになっている。アレを見上げた後の悪魔払いの儀式なのだ。窓から見えるのは舗装された道路と雑木林である。似たような常緑樹の中に一本だけ目立って高い木が少し斜めに伸びている。名前は判らないがその雑木林の中では特別な存在のように見える。どう考えてもその木の方が立派で我慢強く寛容のように思える。でなければあんなところで何年も同じ景色を見ていられる筈がないからだ。もしかしたら自分よりも自由に暮らしているようにさえ思える。人間の感じている時間ほど当てにならないものはないし、景色だって立ち止まって見ている方がよほど変化に富んでいたりするのだ。見たり話したり、動けたりすることはちっとも自由とは関係なくて、むしろその方が不自由さを感じてしまうことが多いのだ。だから伸也は窓からその木を見ると、
<いいよな、お前は。少しは俺の身になってくれよ>
 と泣き言のようなことを心の中で話しているのだった。そうすることで少しは気が休まるような感じがしていた。
 今日何千本目かのビスを殆ど無意識に手に取ると突然ラインが停止し、辺りから機械音が消えて静かになった。主任が駆け寄って来て、
「どうしたぁ」
 と咎めるような口調で問いかけてくる。
「はぁ?」
 と返事をしたが、何を言われているのか皆目見当がつかなかった。
自分は何も失敗していないし、ラインの停止とは関係無いはずである。なのに主任は、自分に原因があるような口振りである。
「私がどうかしたんですか」
 と不満そうに応えると、
「ふざけるな、ライン見てみろよ、ギアーにストップリングが一つもついてないだろう」 と周りに良く聞こえるように大きな声で言って一台のコピー機を指さした。見ると、そのコピー機の側面ギアは今にも落ちそうで、心細そうに揺れていた。側で次の行程の岩木が、ニヤニヤしながら眺めている。当事者以外にとってはラッキーな休息時間なのだ。真也は動かぬ証拠を見せられてもまだ納得できないが、しかし自分以外にはあり得ようが無い。渋々、
「どうも」
 と小さな声で言うと、後の言葉は省略した。主任はまだ何か言いたいような表情だったが、時間の無駄とでも言うように横目で睨みながらスイッチボックスの方に足早に行った。
「岩木、何したんだよ」と、やり場のない不満をぶつけた
「また俺のせいにするのかよ、本当にどこか悪いんじゃない、三度目だよ」
「だけど俺は部品をつけ忘れたりした覚えは無いよ、気がつくとラインが止まって主任が来て、それで岩木がニヤニヤしているだろう、訳がわからないよ」
 話の途中でラインが動き始め、最後の言葉は独り言のようになって会話が途切れた。
自分の仕事振りを思い返してみるが、ストップリングをつけ忘れた覚えはない。三十メートル程のラインの上を、コピー機がゆっくり流れて行くが、自分はマニュアル通りに作業を進めたはずであった。しかし、そうでなかったことはコピー機を見ればわかるし、その部品が自分の責任であることも事実である。
 そんなことを考えている間もどんどんコピー機は流れ、伸也の手は殆ど条件反射のように動き、軸にギヤーを通してストップリングで固定していく。体は規則正しく動いているが、頭の中はまるで別の生き物のように色々な考えが浮かんでくる。まるで自分を無視して、頭が勝手に考えているような気がする。
 伸也はこの工場に勤め始めて三年近くなるが、時々妙なことが起き始めていた。この仕事の限界は三年ぐらいなのだろうか、同期で入社した同僚の殆どは転職し、伸也一人取り残されてしまった。大体は仕事に嫌気がさして辞めていったが、精神的におかしくなって辞めていった仲間も何人かいて、その殆どは伸也のポジションが最後だった。
 三時の休憩時間になったが、ライン停止が腑に落ちなかった。伸也は自分も頭のどこかがおかしくなりかけているのではと感じることが時々ある。先ほどのトラブルもそれと関係があるのだろうか。体はラインの速度に合わせて単調に部品を取りつけ、まるでロボットのようだが、頭の中では誰かと会話のようなことをし始めていることもある。自分が考えて会話を進めているということではなく、口をついて出た言葉で自分が誰かと会話をしていたと気づくのだ。
 時々隣の岩木から、
「誰と喋ってんだよ」
 とからかわれるが、実際は言われるまでにもっと喋っていたのではと思う。
「何を喋ってた?」
 と岩木に聞くと、
「ぼそぼそいってるからよくわかんないよ、自分でわからないの」
 と、逆に聞かれてしまう。無限のように感じる時間も、そんなときに限ってあっと言う間に過ぎていたりするのだ。


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幻覚2 [小説 < ブレインハッカー >]

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幻覚(2) 

 三浦伸也は地方の高校を出ると何も考えず今の会社に就職した。自分の就職については成り行き任せでいい加減だったが、大学進学については、担任の薦めがあったにも関らず、無意味だとはねつけ、進学する友人を能無しとけなした。大学で学べることなどたかが知れているし、学問は独学で十分出来ると考えていたからだ。しかし、実社会に出てみると能力以前に大卒と高卒の学歴の差は歴然とし、こんな当たり前のことが何故わからなかったのかと思った。だがそんなことの為に大学に行こうとは思わないし、自分には別の方法があると考え、無味乾燥な毎日に耐えていた。仕事は過ぎ去る時間を待ち望むだけのもの、精神を蝕む緩慢な拷問でしかなかった。
 数年勤めている先輩達の話題は車と女、その話題に興じている男達は生き生きしているが、去年もその前の年も話していることは何一つ変わっていないように思われた。余計なことを考えないことが、単調な仕事に耐え続ける賢い処世術なのだろうか。伸也には全く別の人種のように思えた。数年経つと自分もあのようになるのかと思うと、益々その男達から遠ざかっていった。
 伸也の暮らす六畳二間のアパートは会社から一時間ほどの多摩市にある。先輩達のように苦痛から逃れるための手段も持たず、ひたすら会社とアパートの往復を繰り返し、時々パチンコや映画に行ったりする程度であった。生活を楽しむ術は下手で、真面目な性格は、苦痛や悩みを他のことで紛らわそうとすることを許さなかった。目指す方向性のない転職は無意味に思え、耐えることばかりの生活は、焦燥感を日に日に増大していった。
 近頃は耐えることも限界に近くなり、欠勤や遅刻が増え、ライントラブルも再三起こすようになった。欠勤や遅刻については自分の意志であったが、ラインのことは今日のように全く身に覚えがなかった。勤務時間が終わると杉田係長が、
「話があるから事務所に寄ってくれ」
 と言って肩をポンと叩いて行った。
伸也にはどんな話か十分わかっていた。杉田係長はこの間、二十年の永年勤続で社長から表彰され、社長と握手をしている写真を額に入れて伸也に見せたのだった。伸也は反発を感じるだけで、その後も勤務態度は一向に変わっていなかった。∧社長の握手に騙されている人間の言うことなど聞くものか∨と思っていたのだ。
 事務所は入社式のときに入って以来二度目だった。係長は隅のソファーに腰を下ろしていたが、伸也を見ると手招きして呼んだ。
「三浦君、今日は君の考えを聞きたいんだ、いいかい」
 伸也は、
「はい」
 とだけ返事をすると黙った。
「君は他の社員に比べると欠勤や遅刻が多いようだけど、もう少しまともに仕事をしてもらわないと困るよ。君の尻拭いをするのは私なんだからね。これからはまともにできるかい」
 係長はこれが最後とでもいうようにキッパリした口調で言った。
「まともってどんなことですか」
 伸也は小さな声で無愛想に質問した。係長は反抗的な態度に表情を堅くして、
「人と同じようにすることだよ、君は人のしていることが出来ないのか」
 と、大きな声を出した。
伸也は少し間をおくと、
「出来ません」
 と、係長の苛立ちを知りながら冷静に答えた。
「君は自分の言っていることがわかっているのか、そんな考えでは会社は困るんだよ、もう帰っていい。よく考えろ」
 係長はそう言うと荒々しく席を立ち、伸也を残して行った。入れ替わるように若い女性の事務員が、出ていく係長を振り返りながら二人分のコーヒーを持って来た。先輩達の休憩時間の雑談に時々出てくる名前の女の子だった。彼らのマドンナのような存在で、名前は岡村由美という。岩木からも聞かされた名前だったが、その話とは、彼女の兄は暴力団の若頭で、彼女の恋人が刺されたとか、彼女にはパトロンがいて、やはり暴力団に関係があって、彼女にうかつに手を出すと危ないという話だった。伸也は興味のない風を装っていたが、実のところは少なからず興味を持っていた。
 由美は立ち上がりかけている伸也を見ると、
「あらっ」
 と言って辺りを見回したが、取りあえず伸也の前と係長のいたところにコーヒーを置き、
「どうぞ召し上がってください」
と言った。係長を怒らせたことは何とも思わなかったが、一人残されたソファーは居心地が悪く、その上目の前にあの岡村由美がいるのである。伸也は体が熱くなるのを感じたが、由美と視線が合った瞬間、
「すみません、係長は帰ったのでこのコーヒー一緒に飲んでもらえますか」
 と、言ってしまった。
由美は、
「え?私ですか」
 とくりくりした目を一段と丸くして応えると、もう一度あたりを見回し、
「それじゃあ、いただきます。勤務時間は終わったし」
 と言って、笑顔を見せた。
伸也は由美の笑顔を見ると、みるみる緊張感のほどけていくのを感じた。初対面の伸也に対して何の警戒心も持っていないことが伝わってくるのだった。自分の口から出た言葉にうろたえている伸也の心の中を見透かされてしまったのだろうか。
由美はコーヒーに口をつけると、
「美味しくないでしょう、インスタントだから」
 と言ってまた、くすっと笑った。伸也もつられて笑いながら、
「じゃあ、一緒においしいコーヒー飲みに行きませんか」
と誘った。
「え、私と一緒に」
 と言うと、しばらく天井を見上げるようにしていたが、
「いいわ、でも私まだあなたの名前も知らないんですよ、もしかしたら、ナンパされてるのかしら」
 と、伸也の目を覗き込むようにした。
伸也は、由美の透明感のある視線を真正面から受け止めると、少し考える振りをしてから、「たぶん」
 と答えた。
「たぶん?」
 由美はもう一度目を丸くすると、くすっと笑った。
「あ、製造三課の三浦伸也、三年目かな、君は去年入社した岡村由美さんだよね」
「私の名前知ってるんですか?」
「勿論知ってるよ、タイムカードが隣なの知らない?」
「隣?じゃあ、あのカードが三浦さんなの?ほとんど赤インクでしょう」
 由美は間違えて押そうとした赤インクだらけのタイムカードを思い出した。
「俺のカードの秘密を知ってるの」
「事務所では有名人よ三浦さん。殆ど毎日遅刻で赤インクの行列だもの。後二ヶ月もつかどうか賭けてるわよ」
「君は賭けたの」
「もちろんよ、やめる方に。三浦さんも賭ける、私に………」
 由美はそう言うとまた笑った。
「君のカードも赤だらけなの」
「悪いけど、これでも無遅刻無欠勤なの、でも辞めるつもりよ」
 由美は顔を伸也に近づけて小声で言った。伸也は距離を置いて見る由美の笑顔が、すぐ側で見ると違って見え、岩木から聞いた由美の噂が何やら妙に本当らしく思えてきた。
二人が顔を寄せて小声で話しているのを誰かが見つけたらしく、
「岡村君」
 と、苛立つように呼ぶ声がする。
「係長だわ、じゃあ、明日の今頃でいいかしら、駅前のサイモンで」
 と、由美は軽やかに言うと立ち上がった。
伸也は、
「いいよ」
 と言うと、一気に冷めたコーヒーを飲み干した。


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幻覚3 [小説 < ブレインハッカー >]

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幻覚(3) 

 いつもと同じ道を歩き同じ電車に乗った。いつもと感じが違うのは由美のせいである。
<所詮男なんてこんなものさ>
 と、呟いてみる。いつもの鬱々とした気分が内ポケットの奥に潜り込んでいった。満員電車が揺れるたびに背中を押されるが、倒れない程度に身を任せている。目を閉じると満員電車の揺れも心地よく感じられ、眠気が津波のように襲ってくる。その度に吊革を握り締めて堪えた。しかし何度目かのとき、踏ん張っている足に体重を感じなくなった。あの感覚だ。伸也は<来る>と思った。ここ数ヶ月間というもの、眠る直前の意識の薄れていく瞬間に妙なことが起きていた。慣れてはきていたがやはり不安を感じる。突然体が宙に浮いたように感じると、自然落下するように気が遠くなっていく。そのまま落ちて行きたい誘惑を意識しながら身を任せていると、急に周りが明るくなりそして伸也は一面の菜の花を眺めているのに気づく。
伸也は自分がどうなってしまったのかを詮索するより、少しでもこの感覚を味わっていたかった。ただ目の前の世界だけが美しく、それ以外何も無かった。なだらかな斜面に一面の菜の花。自分はその世界にいるが、地面に立っている実感はない。ただ美しさだけを感じている世界がある。その美しさの実感は今まで感じたことのないものであり、感動でも喜びでもない、純粋に美しいだけの世界である。時間の感覚は全くない。十二月に菜の花はあまりにも突飛だが、伸也の見ているものは間違いなく菜の花だった。黄色い光と空の青い光が細かい粒子となって不規則に輝きながら飛び跳ねる。その粒子が伸也の体の中を飛び跳ね通り抜けていく。伸也は自分も粒子となり、光と一体になったような瞬間を味わった。
吊革を握る右手に力が入り、その刺激で身体に重力を感じた。眠っていたような感覚はなく、気がついたというような感覚だった。窓に見慣れた景色がある。ウトウトし始めてからでも三分ぐらいの時間だろうと伸也は思った。こんなことを繰り返しているうちに、自分の精神がどこかおかしくなってくるのではないかと不安になる。幻覚を見ているのだろうか。しかし幻覚にしてはあまりにも美しすぎるし、何度か見るうちに共通したところのあることに気がついてきた。殆どの場合人間の気配を感じない自然だけの世界に居るのだった。しかし生気に満ち溢れた世界といってもよい。あんな世界が幻覚で見られるとは思えない。自分の体が何処かへ飛んで行ってしまったような感じがするのだ。いくら考えても分らない。いつもの堂々巡りになってしまう。伸也は答えの出ないまま電車の扉が開いてホームに押し出された。ホームを冷たい風が吹き抜けると急に現実の世界へ引き戻され、慌てて人波に歩調を合わせ乗り換えの電車に向かった。
人波に紛れれば、つかの間だけでも孤独感を誤魔化すことが出来るという人もいるが、伸也はその反対だった。人波の方がより深刻な孤独感を感じたりする。しかし今日の伸也は、その人波の延長線上に由美の存在を感じることが出来た。
 
 次の日、伸也は定時になると手際よく片づけを終わらせ、入念に爪の間に入った油を落としサイモンに行った。この店には岩木や、同期の友人達と何度か入ったことがある。取り立てて特徴はないが、カウンターにはサイフォンが小綺麗に並べられ、いかにも美味しいコーヒーといった演出がしてある。確かに美味しいのかもしれないが、伸也には何処で飲んでも同じに思えた。気に入っているのは、雑誌の種類の多いことぐらいだ。ちょっと早く来すぎたことを後悔しながら雑誌を読みかけると由美がやってきた。自分に向かってくる由美を見ると、初めてのデートなのに懐かしい家族にあったような気がする。
「早かったのね、朝は遅いけど」
 と言うと、昨日のようにくすっと笑いながら腰を下ろした。
「出勤するだけでも感謝してもらわなくっちゃ」
 と、伸也も笑いながら由美の顔を見た。
「あの後で、係長が言ってたのよ、あいつと知り合いなのかって。ええ少しって言うと、やめた方がいいって言ってたわよ」
「なかなかいい係長だね、なんて返事したの」
「そうしますって返事したら結構嬉しそうだったわ」
 由美は面白そうに笑った。
「昨日、会社辞めるって言ってたけど本当なの?」
 伸也はコーヒーカップを手に持ったまま訊いた。
「本当よ、もう少し休みの取りやすい仕事に変えるつもり。三浦さんも辞めるんでしょう、ちょっと無理みたいじゃない」
「まぁね、あんな会社にいつまでもいるつもりはないしね。岡村さんは辞めてどうするの」
「色々ね、やりたいことがあるの」
 由美の少し考え込むような表情は、伸也には意外だった。
「やりたいことって?」
「うーん、私のことはいいでしょう、その内にね。問題なのはあなたよ、三浦さんはどうするの」
 由美はいつもの明るい表情になって訊いた。
「君みたいにやりたいことがある訳じゃないし、でもあの会社で一生過ごすつもりもないし、俺も色々あってね、少々疲れ気味って感じかな」
 伸也は岩木達とこんな話をした後はどっと疲れを感じたりするが、由美と話すと元気が出てくるような気がする。
「色々?もしかして彼女かしら」
 由美は伸也の瞳を覗き込むようにして訊いた。
「そうだったらいいけど、ちょっと違うみたい、話してもいいけど、きっと信じないよ」
「話したいんでしょう、私に。信じるわよ………きっと」
 由美はそう言いながら、身を乗り出すようにした。
「じゃ、話すけど、とにかく変な話なんだ。いきなり自分がどこかへ行ってしまうんだ。本当にどこかへ行くんじゃなくて、その場所にいて、でもどこかへ行ってるんだ。眠気と関係があるようなんだけど、電車の中だったり、布団の中だったりして、まるで夢か幻覚を見ているようなんだ。たいていは気持ちいいし、悪い感じじゃないんだ。
「どこへ行ってるの」
 由美は真面目な顔で訊いた。
「うーん、なんて言うか………昔の映画だけどソフィア…ローレンのひまわりって映画知ってる?」
「ビデオで見たことあるけど名作でしょう」
「その中に野生のひまわりが群生している小高い丘のシーンがあったろう、見渡す限りひまわりの花、それがどこまでも続くところ。俺の見るのは菜の花だけど、ちょうどそれに似た黄色と空の青だけの世界なんだ。自分が確かにそこにいることは分るけど、しっかり地面に立っている実感はなくて、ただ目と感覚だけがあるような感じなんだ。それがすごく気持ちよくて、なんて言えばいいのか、殻を全部脱ぎ捨てて命だけの自分になったような………上手く言えないな………思うがままの自分になったようなと言うか………とにかく最高なんだ」
 伸也は上手く言えなくて結局最高としか言いようがなかった。
「どこかへ行ったというのは信じるけど、それって夢じゃないの、目を閉じて行ける世界は空想と夢の世界だけよ。でなければ分裂気味かもよ」
 由美は突飛な話しをする伸也をちょっといじめてみたくなった。
「いや、夢とは全然違うんだ。夢なら自分ですぐわかるよ」
「どうしてわかるの」
「どうしてって言われると困るけど………だって風の音も聞こえるし。太陽は眩しくて見ていられないし、俺の頭の中であんな世界は作れないよ」
「でも眠っていたんでしょう」
「自分では眠っていた感じはしないけど、そのとき自分がどうしてたかははっきりしないんだ。仕事中はぶつぶつ言ってたらしいけど、このときは自分でもよくわからなくて、ちょっと変なんだ」
 伸也は話せば話すほどつじつまが合わなくなるような気がしてきた。
「三浦さんてやっぱり変な人ね。私の思った通りだったわ」
 と言うと、由美は嬉しそうに笑った。
「おかしいかなぁ」
 と伸也も考え込む振りをして、途中で笑い出してしまった。
「本当は全部信じたわよ」
「いいよ、無理しなくても」
「無理じゃないのよ、私ね、人間て何が起きても不思議じゃないって思ってるの。危なかったりすることはないの?」
 由美は少し心配そうに訊いた。
「今のところ大丈夫だけど、仕事中は部品をつけ忘れてラインストップになるぐらいだから」
「だったらあなたのその世界、もっと詳しく調べられないの、私知りたいわ」
 伸也は、由美がどこまで真面目に訊いているのかよくわからなかったが、
「調べる方法があるかなぁ?」
 と答えてしまった。
「よく見てくるだけでもいいんじゃない。例えばその菜の花の世界だけど、その中では自由に動いたり見たり出来るの?」
「連れて行かれて、見せられてるような感じだけど、とにかく余計なことを考える余裕の無いぐらい圧倒的な景色なんだ。いつも菜の花という訳じゃなくて、山や海のときもあるけど、一番多いのが菜の花の風景なんだ。どうしてかなぁ」
 伸也が考え込むほどに由美は益々目を輝かせ、身を乗り出してくる。
「こんな話が面白い?君の言う通り分裂症で悩む男の幻覚かも知れないよ」
 伸也は由美の好奇心がよく分からなかったし、こんな話を由美とすることになるとは思っていなかった。それにコートを脱いだセーターの二つの膨らみが気になっていた。
「悪いけど面白い、でも分裂症じゃないと思うよ」
 と由美は正直に言った。
「面白いはないだろう、同期の友達も何人かノイローゼで辞めてったのがいるけど、俺も来たかなって気がしたよ、マジで」
「三浦さんは大丈夫よ、結構いい顔してるから、会社は続きそうにないけどね」
「いい顔はしてないと思うよ、いつも陰気に見えるだろう」
「だからいい顔なのよ」
 と、由美は自分勝手に決めるように言った。
伸也は、
「何がいいんだかわかんないけど、悪い気はしないからいいことにしておくよ」
と言うと、残ったコーヒーを飲み干した。
「食事は?」
 と伸也が誘うと、
「ごめんね、今日は帰らなくちゃいけないの」
 と由美は申し訳なさそうに言った。
「用事でもあるの?」
 と伸也は納得いかない様子で訊くと、由美は少し時間をおいて、
「アルバイトなの」
 と言った。
「アルバイト?これから………」
 伸也は、岩木から聞いた由美の話はおもしろ半分のデマだと思っていたが、意外な由美の行動を聞くと少し不安になった。
「出番になっちゃったのよ、友達から熱出したからって昼に電話があったの」
 由美はわざとなのか肝心なことを言ってくれない。
「出番て、何の?」
 伸也は親しくなった由美が、どんどん離れていってしまうような気分で訊いた。
「ちょっと恥ずかしいけど………ピアノなの」
 由美は小さく言うとくすっと笑った。
「ピアノ?」
「そう、リハビリみたいなものね。叔父さんの店で弾かせてもらっているの。よかったら一緒に来てもいいけど………来る?」
「いや、今日は遠慮しとくよ、その内に行くから」
 伸也は言ってから少し後悔した。由美の予想外の話と誘いに気後れしたからだ。
「じゃあ、この次ね。ねえ、三浦さんて色んなところへ行ってしまうんでしょう、だったら、私の部屋へ来ること出来る?」
 由美はまた突拍子もないことを言って伸也を驚かせた。
「そんな無理だよ、自分の思い通りになんかならないんだから………体も一緒ならいつでも行けるよ」
 と伸也が言うと、由美は、
「でも、心は置いて来るんでしょう」
 と嬉しそうに笑って言った。
「ねぇ、本当に出来ないかしら、試してみようよ」
 と由美が、まるでゲームでも楽しむように言うと、
伸也は出来るはずのないことはよく分かっているが、
「じゃぁ、入浴シーンつきなら行ってもいいよ、何時に行けばいいの」
 と由美の冗談につき合ったつもりで答えた。
「いいわよ………それじゃあ、今夜の………零時に来て」
 由美が念を押すように伸也の瞳を覗き込みながら言うと、伸也は、
「零時?うーん………でも念のため住所だけは教えて」
 と笑いながら言った。
「だめよ、目を閉じれば何処にだって行けるんでしょう。私本気で待ってるからね。でも、三浦さんが来たことを私はどうやって判るのかしら」
 と由美は大事な問題を発見したように訊いた。
伸也はしばらく考える振りをしてから、
「それは、感じるしかないよ」
 と由美につき合って答えた。
「わかった、感じるのね」
 と由美は納得したように言うと、
「私、ちょっと変?」
 とつけ足した。
伸也はほっとしたように、
「二人の会話って、もしかしたらすごく変かもしれない」
 と言いながら笑ってしまった。
「そうね」
 と由美も笑ったが、
「でも今夜は試してみて、なんか不思議な気分になれるから」
 と言うと、時計を見て帰り支度を始めた。
 サイモンから駅は目の前にある。伸也は一緒に歩きながら由美の肩に手を廻したいと感じたが、まだガラス細工とガラス細工がほんの一滴の接着剤で繋がっているようで、不用意に触れることが出来ないでいた。


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幻覚4 [小説 < ブレインハッカー >]

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幻覚(4) 

  由美は伸也と別れてから三十分程でジャズクラブMに着いた。母の一番下の弟で荻野源太郎が五十になる前に会社を退職して開いたこの店は、繁華街から少し離れたところにある。何気なく歩いていると見過ごしてしまうほど小ぢんまりとして、しかも小さな看板が一つ出してあるだけである。不安そうに覗き込んだ客は、中から漏れ聞こえるジャズを聴いてようやく安心する。夜になると人通りはほとんど無くなり、歩道の街灯も樹木に遮られ暗くひっそりとした感じになる。時々は叔父自身もウッドベースを弾き、月に何度か演奏している。由美が店に入ると叔父が、
「急で悪いね、ピアノの上に楽譜置いてあるからね。特製カレーでいい?」
 とカウンターの中から声をかけた。
「いいわよ、激辛でね」
 と応え、一番端の席に腰掛けた。ここが由美の指定席のようになってもう半年余りになる。
 夏の初めに叔父から、一度うちの店で弾いてみないかと誘われ、
「リハビリのつもりでいいんだから」
 の一言が由美の気持ちを動かした。一度は演奏家の道を歩み始め、これからという矢先に原因不明の精神疾患で演奏活動の道を半ば断念していたのだったが、叔父の何気ない一言が由美の気持ちを楽にさせこの店に通うことになったのだ。しかし子どもの頃からクラシックだけが音楽だった由美にとって、ジャズはとても音楽には聞こえなかった。特に叩きつけるようなピアノのタッチはとても乱暴で、耳を塞ぎたくなるような思いがした。叔父が、好きな曲でいいよと言ってくれたことをいいことに、初めての土曜ライブでは、メインの演奏者の休憩時間にショパンを弾いた。常連客は叔父から聞いていたようで、由美がピアノの前に立つとパラパラと拍手をしてくれたが、他の客は由美の名前のないプログラムを見直したり、あれっ?といった表情で由美を見ていた。気持ちを高ぶらせないことだけに注意をして淡々と演奏を始めると、それまで頭を振ったり手足を小刻みに動かしながら聴いていた客は、予想もしないショパンを聴いて腕組みをしたり、あるいは目を閉じるようにして身動き一つしないで聴いていた。演奏を終えるとそれまで静かにしていた客が、先ほどのジャズが終わったときと同じように賑やかな拍手をしてくれた。以前の由美にとっては何でもない曲だが、発作のような状態にならず最後まで弾けたことがなにより嬉しかった。
「出来たよ。サエちゃん九度の熱が出たって、インフルエンザかも知れないね」
 と叔父が言いながら由美の前に特製カレーを置いた。
「私、帰りに寄って帰ろうか? あ、だめなんだ今日は、佐恵子どんな具合だって?」
 と由美は頭の中で伸也とのことや、佐恵子のことがごちゃ混ぜになって聞いた。
「お粥を作って食べたって言ってたね、それに困ったことがあれば弟を呼ぶから大丈夫だって」
「じゃあ、また明日電話してみるね、それに弟が居たんじゃちょっと行けないしね」
 由美はそう言ってからくすっと笑った。
「弟ねえ………そう言えばこの後都合悪そうだったけど。由美はお兄さんかい?」
 叔父がふざけて言った。
「ご期待に添えなくて残念でした。そんなんじゃないのよ。今日ね、ちょっと変な人とデイトして変な約束したの、もしかしたら叔父さんと気が合いそうな人よ」
「俺と気が合う人間にろくな奴はいないね、その変な約束って?」
 叔父はカウンターから身を乗り出すようにして訊いた。
「彼が今夜十二時に私の部屋へ来るっていう約束、でも体は来ないのよ………うーん、つまり、彼の目に見えない体だけが移動してくるの。バカげてるでしょう」
 と由美は考え込むような振りをした。
「かなり変わった奴みたいだけど、由美もかなりだね。それで今夜は彼を待つのかい」
 源太郎は面白がるように訊いた。
「勿論よ、そんなこと出来るはず無いって思うけど、でもなんか起きても不思議じゃない気分なの。叔父さんだってこっそりスプーン曲げやったことあるでしょう」
 由美は伸也を弁護するように言った。
「一度も曲がらなかったけどね、もし由美のところへ来ることが出来たら俺のところにも来るように言ってもらおうか」
「いいわよ、その代わり出演料高いわよ」
 由美はそう言うと楽譜に目を通した。難しい曲はなく、以前に何度か弾いたことのある曲ばかりだった。

 演奏は十時で終わりタクシーを呼んだ。ここから二十分程で部屋に着くが、繁華街を過ぎた辺りからフロントガラスに水滴が落ちてきた。ワイパーは由美の見る世界を攪乱させようとして断続的に動き光を滲ませる。対向車のライトが虹色に由美の顔を照らし、由美は心地よい揺れと共に体の中心にある結び目のような物が解かれていくような気がした。頭の隅から警戒信号が出されているのを感じたが、それよりも心地よさに身を任せることが優先した。視界の中から流れるように後方に消えていく光は、記憶がどんどん過去に遡っていくような錯覚を感じさせる。
由美は心地よさと不安の入り交じった感覚に決着をつけるように目を閉じた。頭の中が一瞬霞むようになり、発作の起きることが判った。由美は、待ち構えるように眉間に皺を寄せると、目を閉じた視野の中央が白く輝きその中に吸い込まれるように落ちていった。次の瞬間には体が宙に浮いたような感覚になったかと思うと体が弾けるように視界が広がり、そして自分が森の中にいることに気づいた。
 遠くを見ると幾重にも重なる山が見える。その中で一番高くそして均整がとれている山には、らくだの瘤のようになった頂が四つある。演奏中に何度も見た山だ。この幻覚に上手くつき合う方法も判りかけ、最近では焦らずに見える物を観察するようなゆとりも持てるようになって来た。以前と変わりはないが、季節が少し違っているように思えた。風に吹かれて落ち葉が目の前を駆けていく。気がつかなかっただけなのかと思いながら木の葉の先を追いかけると、茂みの中を遠ざかっていく男の後ろ姿に気がついた。
突然男が振り返り由美の方を見つめている。遠くて表情ははっきりしないが、送られてくる視線は由美が今まで味わったことの無い、体の芯から涙が一気に溢れ出すような悲しさを運んできた。一瞬、目を開ければ逃れられると思ったが、それよりも由美の感覚は男の姿を捉えて離さず冷静さを失ってしまった。幾度となく見てきた幻覚で人間を見たのは初めてだった。男が再び背中を見せたとき由美は、
「ああ!」
 と声を出してしまった。
「何ですか」
 と振り返った運転手は怪訝な表情で由美を見ると、
「大丈夫ですか」
 と尋ねた。由美は自分の目から涙の溢れていることに気づくと、慌てて涙を拭き、
「この先を右に曲がったところで結構です」
と伝えた。

 伸也は多摩市を見下ろす高台にある木造アパートに住んでいる。かもめ荘という時代遅れな名前は気に入っているが、月四万六千円の家賃が高いのか安いのか、部屋の中を歩くと床がきしむ程の古さを考えると何とも言えないところである。しかし夜になると多摩市の夜景が一望でき、それだけで気持ちが大きく広がるような気分になれるし、六畳二間にバストイレ付きは、家具や荷物の少ない伸也にとっては広すぎる程である。窓際に机が置いてあり、ここから夜景を眺めながらとりとめのないことを考えるのが日課のようになっている。仕事が楽しいわけでもないし、将来の見通しがあるわけでもない。目的のない青春ほど侘びしいものはないと思い悩んでいた。何事も始まらなかったし、何を始めればいいのかも皆目見当がつかなかった。気がつくと零時を過ぎていることも多かったが、何を考えていたのか思い返してみると、取るに足らないようなことが大半であった。しかし今夜はいつもと違っていた。由美とあのような話になるとは思いもしなかったし、自分の部屋に来て欲しいというのは余りにも突拍子もない提案だった。瞑想などの本を読むと確かに幻覚のような物を見ることはあると書いてあったが、自分に起こっていることはそれとは違うように感じていた。もしかしたら出来るかもしれないという期待感が少しあった。普段は眠りに入るときに幻覚を見ることが多く、伸也はいつもよりは早いが布団を敷き横になった。
 目を閉じると閉じた視野の中にモザイクのような物が現れ、それが勝手にウェーブのように動き始めたり、急に水玉模様のような物が自分に向かって砲弾のように飛んできたりする。飛んでくるスピードを緩やかにしようと思えば思うほどかえって激しくなってしまう。そんなことを繰り返している内に何もなく眠ってしまったり、突然体が宙に浮いたようになってストーンと幻覚の世界に入ったりする。伸也は閉じた揺れ動く視野の中で視線を虚空の一点に集中し何とか由美の顔を思い浮かべようと努力した。これで上手く出来るとは思えなかったが、ほかに方法を思いつかなかった。由美の顔は分っているのに上手くいかずに途中で顔がどろどろになって崩れていった。何度繰り返しても失敗し、諦めて力を抜いた途端、顔の隅々まで覚えていないような細かい部分まで、まるで目の前にいるように見えた。その瞬間、由美の顔は虚空の奥に吸い込まれるように遠ざかり、伸也の体ももの凄いスピードでその後を追うように吸い込まれていった。
 一気に視野が広がると目の前に由美が見える。間違いなく由美である。小さなソファーに足を伸ばしてくつろぐ由美がそこにいる。本当に出来てしまったのだ。伸也は自分がどうなってしまったのか見当がつかず不安でたまらない気持ちになった。今までの幻覚とは訳が違う。今目の前にいるのは現実の由美なのだろうか。現実だとすれば、自分はどうやって移動したのだろうか。それとも現実のような幻覚を自分の頭の中で作り出して見ているのだろうか。どちらにしてもそれを確かめるには、今見ている物をよく観察して明日由美に聞くしかない。ただ体全体で感じる感覚は今まで何度も見た幻覚のときとよく似た感じがする。とてもクリアーになったような気がするし、重い肉体感覚もない。室内を見回そうと思った瞬間に視野が動き始める。自分はいつも正面を向いていて、見たいと思った所が目の前に来るような感覚だ。今、三十センチ程の所に由美の顔がある。何事もないようにリラックスして横になり時々時計を気にしている。十一時半だから布団に入ってから一時間ほど過ぎたことになる。自分が居ることを由美に知らせようと懸命に呼びかけてみたが、声はないし手で触れることも出来ず、ただ由美を見ていることしか出来なかった。仕方なく部屋のあちらこちらを見回すと、それ程広くはないが、スタンドピアノがあり部屋の作りは、伸也の部屋とは比べ物にならなかった。台所もあり高級ワンルームマンションのように思えた。

 由美はタクシーを降りてからずっとあの男のことを考えていた。突然の幻覚の中で突然現れた男。そして突然の言い様のない悲しさ。今まで何度か見たあの景色の中にいつも居たのだろうか。気づかなかっただけなのだろうか。それにしてもどうして私はあんなに涙を流してしまったのだろうか。解らないことばかりだった。それと伸也との出会い。自分の身近に同じような経験をしている人が居るとは、偶然にしても驚きだった。会社の中で伸也は何となく引っかかる存在だったが、その理由がはっきりしたような気がする。まるで、自分の意識しないところでお互いがとうの昔に理解し合っていたようだった。話していても何の違和感も無く肉親と一緒にいるように感じた。なにがそう感じさせるのかは解らないが、体や心が同じ材料で作られているような、そういう一体感を伸也は由美に感じさせた。幻覚で見た男にも由美は同じような種類の物を感じ、そして初めてもう一度あの世界に行きたいと思った。部屋に帰ってからソファーに横になり、時計を見るともう十一時半になっていた。伸也は私の話を本気で聞いてくれたのだろうか。言い出した本人も半信半疑だったが、頭のどこかでは出来るに違いないと思っているところもあった。伸也が<入浴シーン付き>と言ってふざけていたのを思い出し少し考えたが、ソファーから起きるとぎごちない様子で洋服を脱ぎ始めた。

 伸也は由美の顔を見ると感づかれてしまうような気がした。あのときは幻覚の中で好きなところへ移動できるなんて思ってもいなかったから、
<入浴シーン付き>
 なんて言ってしまったが、本当にそうなってしまうと何か後ろめたい感じがした。
<自分に気づいているのだろうか>
 伸也はそう思って由美の視線を観察したが、そんな様子は無かった。今、由美はブラのホックに手をかけている。セーターの中にあった小高い膨らみの正体が手の届くところで明かされようとしている。
 由美は伸也が本当にここにいれば、きっと目の前にいるに違いないと思いゆっくりホックを外し、隠すように歩き出した。一人芝居をしているような不思議な気分だが、悪い気はしない。
 伸也はほんの少し見えた由美の膨らみの美しさに心を奪われてしまい、ただその美しい膨らみをゆっくり眺めたかった。由美の後からゆっくりついていくと、脱衣所の鏡の前で立ち止まりジーンズを脱ぎ始めた。最後の一枚を脱ぐと、くるりと向きを変え、振り返るようにして自分の後ろ姿を眺めている。伸也はその美しい由美の肢体を、前とそして鏡に映った後ろの両方を視野に入れることが出来た。体のあらゆる曲線が若さと美しさを主張し、伸也の視線を翻弄するように誘っている。由美のはちきれそうな皮膚の上を落ち着き無く彷徨った視線がしなやかなヘアーに定まりかけたとき、由美はバスルームに入っていった。


タグ:小説 幻覚
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幻覚5 [小説 < ブレインハッカー >]

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幻覚(5) 

 <ここまで彼は来ているのかしら>
 由美はそう思うと、いつもより簡単に体を洗うと浴槽に身を沈めた。首まで体を沈め足先を浴槽の端に乗せると天井の方を見上げるようにした。それからゆっくり視線を動かし、室内を一巡するようにした。
<もし彼がここまで来ていればどこかで目が合ってるはずだわ>
 由美はそんな風に考えると、どこかで視線が合ってうろたえている伸也を想像し、くすっと笑顔を見せた。それから今度は自分の体を眺め、どんな風に見えているかを想像した。自分の体の中で気になるところは太腿くらいで、尻や乳房は形も良く伸也にちょっぴり見せたい気もする。肩のあたりまでお湯から出すと、乳房が浮力で少し浮き、小さな乳首がお湯から出てきた。指先で少し摘むとピクンと心地よい。伸也の視線を想像するだけで乳首は敏感に応えてツンと堅くなってきた。由美はもう一度天井を見上げたり、室内を見回し伸也の気配を感じないか確かめてみたが、それらしい何かを感じることはなく、ホッとしたような、しかし物足りないような複雑な気持ちがした。由美はもう少し悪戯していたかったが、もしかして、と思うと恥ずかしく上がることにした。

 伸也は少し汗をかいて目覚めた。時計を見ると十二時過ぎだった。今まで由美の部屋にいた感覚が残っている。バスルームの香りだって思い出すことが出来るし、乳房の下にあった小さなほくろも覚えている。間違いなく由美の部屋へ行ったに違いない。目覚められたことがとても幸運だったように思えたが、とにかく本当ならとんでもないことが出来てしまったのだ。急いで由美に電話をかけ、
「自分でもまだ信じられないけど、とにかく行けたよ、何か気づかなかった?」
 と興奮気味に話した。
「本当に来てたの? 私の部屋に?」
 と、由美は半信半疑で応えた。
「絶対本当だよ、間違いなく君の部屋で、そこに君が居たよ。君が風呂に入ったことだって知ってるよ」
「疑う訳じゃないけど、本当に本当なの?」
「本当だよ、悪いけど全部見ちゃったんだから」
 と、伸也は由美の肢体を思い出しながら言った。
「全部って? 何のこと?」
 由美は少し恥ずかしそうに聞いた。
「だつて、目の前で脱ぐんだからしょうがないだろう。鏡の前でポーズなんかとるからだよ」
「え、本当なの、本当に来たの、凄いことよ、私信じられないわ、じゃあ、まさか、お風呂の中まで来たの」
 と由美は興奮気味に言った。
「ごめん、見ようと思った訳じゃないけど、でも見えちゃったんだよ、なんて言うのか、視線が勝手に動いていって見えちゃうんだよ」
「じゃあ、お風呂の中も見えたのね?」
 と、由美は小さな声で聞いた。
「うん、少しね、でも途中で目が覚めちゃったけど」
「でも、見たんでしょう」
 と由美は観念したように言った。
「ありがとう、素敵だったよ、胸のほくろが気に入ったよ」
「ええ、そんなところまで見えたの、私恥ずかしいわ」
「まぁ、一応君の期待通りに行けたんだから少しぐらいいいだろう。でも、本当に驚いたよ、俺だってまさかこんなことが出来るなんて思ってもいなかったからね、こんなことが出来る人、他にもいるのかなぁ、知らないだけで結構いたら怖いね」
「いるかも知れないわよ、あなたの近くに」
 由美は最後の方を意味ありげにゆっくりと話した。
「冗談だろう、まさか由美も?」
 伸也は少し大きな声で訊き返した。
「冗談よ、でもね、まだあなたには話して無かったけど、見るのよ幻覚を。きっとあなたの見る幻覚と似ていると思うの。ほら、今日話したでしょう、ピアノはリハビリのつもりだって。あれはピアノを弾いているときに幻覚を見ないようにする練習のつもりなのよ。でも、今はリハビリが本業になりそうだけどね」
 由美の意外な告白は伸也を驚かしたが、声を聞いていると入浴剤の香りがしたような気がした。
「それで解ったよ、俺の話を熱心に聞いたり、真面目な顔で部屋へ来いって言った訳が。でもどうしてそんなことが出来るって思ったの」
「出来るって思った訳じゃないけど、自分の幻覚のことが知りたくて色々調べたのよ、それで、似たようなことが書いてあったのを思い出したの。人間って本当に不思議なのよね」
「じゃあ、由美だって出来るんじゃない」
「本当は色々試してみたけど駄目だったわ。コントロール出来なかったの。今だっていつ幻覚になるか分らないし、今日だってタクシーに乗っているときに突然なったのよ。今までは、ピアノを弾いているときが殆どだったのに、いつ来るか分らなくなったわ」
 由美は少し悲しそうに言った。
「どんな幻覚だったの」
 伸也は心配そうに訊いた。
「いつもよく見る山の連なる風景なんだけど、人が居たの。今まで人を見たことはなかったのに、それがとても悲しかったの。理由は解らないけど、悲しみとかでは表現出来ないような感情だったわ。心が千切れそうな感じがして、気がついたら、涙がぽろぽろこぼれていたわ。でも後へ引きずることは無くてね、あんなに涙を流していたのに、覚めた後は爽やかな感じさえするのよ。だから幻覚になるときさえ分れば取り敢えず何とかなるんだけど、今日みたいに突然なのは困るわ、人とだっておちおち一緒にいられなくなったら嫌だわ。あ、ごめんね色々話して、私って変でしょう、今日はやっぱり動揺しているみたい」
「動揺しているのは俺も同じだけど、俺の何かが由美に影響したのかなぁ。今まで無かったことが俺とデートした日に起こったんだから」
 伸也は不安そうに言った。
「そうね、もしかしたらそうかも知れないわ。でもきっと悪いことじゃないと思う。人との出会いって不思議なのよね。どの人とも会うべくして逢ってるような気がするの。これはちょっと叔父さんの受け売りだけどね」
「そんな風に思ってくれると俺もちょっと嬉しい気がするよ。でもドクターには相談するんだろう」
「そうね、一応行ってはみるけどあまり期待しない。今までだって色々脳波を診たりして、結局のところ治療は眠くて頭がボーッとなる薬をくれただけよ。確かに幻覚は見なかったけど、そんなんじゃピアノは弾けないし何も楽しいこと無かったわ。伸也さんは診てもらわなくていいの?」
「行ってもきっと由美と同じだと思うし、独り言のことは気になるけど、でも今日のことは誰も信用しないだろう、それに由美には悪いけど結構気に入っているんだ、俺の幻覚というか何というか………由美のほくろは幻覚じゃないみたいだから、マインドムーブメントとでも言えばいいのかなぁ」
 伸也はそう言うと、窓から見える夜景に由美の美しい曲線を重ね合わせた。
「マインドムーブメント?精神の移動ってことよね。私は信じるわよ、今夜私の部屋に来たこと。でもこれからどうするつもり。どこかに発表でもするの?」
「今のところそんなつもりは全然ないよ。何かもっと大事なことがありそうな気がするんだ」
「大事なことって?」
 由美はソファーに横たえた体を少し起こすようにして聞いた。
「今は分からないけどでも感じるんだ。体の奥の方から何かが聞こえてくるようなそんな不思議な気がするんだ」
 伸也は由美の言葉を待ったが返答は無く、考え込むような声だけがかすかに受話器に響いている。
「どうしたの」
 と伸也が心配そうに聞くと、
「私もそうなんだわ」
 と由美がはっきりとした口調で言った。
「私の幻覚も体の奥の何かが知らせようとしているんだわ、きっとメッセージなのかも知れない。でも体の奥の正体が分からないの、自分のことなのに」
「メッセージってどういうこと?」
「よく分からないけど、ただそんな気がしただけ、でもどうにかして外へ出たがっている何かがあるの。それをメッセージと言えばいいのかは分からないけど、ほかに言いようがないの」
 由美は話しながら、もやもやしたものが少しずつはっきりしてくるように思えた。
「外へ出たがってる………分かるような気がするよ、俺もそんな感じなのかも知れない」
 伸也は何か納得できたような、腑に落ちたような気がした。そして急に窓の外に浮かぶ夜景がぼやけ、焦点を合わせるのが辛くなってきた。
「もう寝ようか、頭がぼんやりしてきたよ、明日は定時に出勤予定だからね。一応は」
「私は大丈夫よ、だって今日は凄い日なんだから。でもいいわ、その代わり明日もつき合うのよ。わかった?」
伸也は、
「ああ」
 と生返事をするとそのまま横になった。たった一日のことだが途方もない時間が過ぎてしまったような気がする。そして自分がまるで生まれ変わったような気がした。

 翌日、由美は伸也よりも三十分程早く叔父の店Mについた。客のいない店内にポール…チェンバースのベースが重苦しく響き、フランス煙草の香りが漂っている。カウンターに座った由美は、叔父の顔を見ると待ち切れないように昨日の出来事を話し始めた。
源太郎はコーヒーを入れる手を止めると、
「それで、彼が由美の部屋にきたことがどうして分かったの」
 と聞いた。
「すぐ電話がかかってきて、話したの。私の行動をまるで見ていたように知っているし、部屋の中の様子も細かいところまで言えるのよ」
源太郎はコーヒーを由美のカップに注ぐと、
「うーん、俺がいくら変わっていてもその話がすんなり入る程の頭じゃないね。善良な大人ならその男には気をつけろと言うし、そうでなければ、うまいこと言ってモノにしてやろうと思うに違いないね」
「おじさんはどっちなの」
「騙す方に決まってるだろう、こんな人相でいい奴はいないよ」
 源太郎はそう言うと無精髭を撫でまわすようにした。
「叔父さんは信じてくれると思ったのに、まだ誰にも話してないのよ。叔父さんはこういう話好きでしょう、よく瞑想のことを話してくれたじゃない」
「あれは由美の病気にいいと思ったから勧めたんだよ。今の話は現実と幻覚の区別がつかなくなっているんじゃないかと思ってね、興味はあるけど由美には危険だと思うよ。せっかく特製のジャズ療法が効いてきたのに」
「区別がつかないって、私が?」
「それは何とも言えないけどね、でも彼も由美と似たような病気があるんだろう。その二人が意気投合してさ、幻覚か幻想か知らないけど、願望だって言うこともあるかも知れないし、とにかくそれで二人だけの夢の世界を作ってしまうってこともあるんじゃないかな。まぁ、それが恋って言うのかも知れないけどね」
 源太郎はそう言うとおどけて笑って見せた。真面目なことを言った後に見せる叔父の癖を由美は久しぶりに見た。
「私は恋をして舞い上がってる女なのね、そして愚にもつかない話の虜になってるって言いたいんでしょう、ちょっと今日のコーヒーまずいわよマスター」
 由美はそう言って叔父を上目で睨んだ。
「彼の精神が由美の部屋へ来たって言う話はよく分からないけど、恋は当たってるだろう」
 源太郎は由美の瞳の奥を優しく覗き込むようにしながら言った。
「そうね、ちょっといい感じだけど、でも舞い上がったりしてないわよ」
「はっ、はっ、はっ、わかったよ、何かリクエストある」
「今日は聴きに来たんじゃないのよ、彼とここで会う約束したの。構わない?」
「俺はいいけど、そう言うことは最初に言ってくれよ、いろいろ都合があるんだから」
「叔父さんがいろいろ変なことを言い出すからよ」
「じゃぁ、俺が彼の本性を見抜いてやるか」
「直接話せば叔父さんにも分かるわ、作り話でも二人の夢の世界でもないってことが」
 源太郎は、話しながらレコードのジャケットを何枚か手に取り眺めていたが、チャーリー・ヘイデンのクローズネスをターンテーブルの上に乗せた。重苦しいウッドベースをハープが挑発するように響いている。アリス・コルトレーンのハープシコードが由美の瞼を閉じさせ頭の芯が心地よく揺らぎ始めたとき、隣に人の気配を感じて目を開けた。
「待った」
 伸也はそう言いながら店内を見回した。
「少しね………なかなかいい店でしょう、待ってる間にあのこと話したけどいいよね。叔父さんを紹介するわ」
 由美はそう言うと源太郎に眼を向けた。源太郎は由美から伸也を紹介されると、
「平日はこの通り客は殆ど来なくてね、何にしますか」
 とオーダーを聞いた。伸也は疲れているせいかミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーが飲みたかったが、そんな注文をすると嫌がられるか、コーヒーの解説をされそうな気がしてつい、
「ブラックで」
 と言ってしまった。源太郎は無愛想に、
「はい」
 とだけ返事をすると黙ってコーヒーを入れ始めた。
伸也は由美から叔父のことをちょっと変わった人と聞いていたが、成る程と思い始めていた。源太郎はコーヒーが入るとオーディオの音量を少し絞り、
「三浦さんの話は由美から聞きましたよ、妙なことが出来るそうですね」
 と切り出した。
伸也は唐突な言い方に戸惑いを感じながら、
「ええ、まぁ………出来ると言うより出来ちゃったという感じなんです………同じことがもう一度出来るかどうかも分からないんですが………」
 としか言えなかった。
「体は自分の部屋にいて、でも由美の部屋に行って部屋の中を見て回ったって聞きましたけど。誰が聞いてもイカレタ話と思いますよ、三浦………伸也君だったね、君を見ると俺程イカレた奴ではなさそうだし、どうやったのか教えてくれますか」
伸也が口を開きかけると、
「イカレタはちょっと失礼よ、まだ会って十分も経ってないのよ」
 と由美が口を挟んだ。源太郎は、
「由美の彼なんだからいつもの調子でいいだろう、伸也君、俺の悪いのは口だけだからね」
 と言うと初めて笑顔を見せた。
「うまく説明できないんですが、以前はどんな幻覚を見るかなんて見当がつかなかったんです。でも最近はとにかくそのときに見た幻覚の世界を冷静に観察するようにしていたんです。そしたら今まで押し寄せてくるような感覚が少し変わって、たまに自分から手を伸ばすように視野が広がることが出てきたんです。それからだんだんにコントロールしやすくなってきたんです。それで由美さんに出会って冗談半分に由美さんをイメージしたら行ってしまったというか、出来ちゃったんです。最初は現実には無い由美さんの部屋を頭の中で創り出して見たんだろうと思ったんですが、電話で確かめると本物の由美さんの部屋を見たとしか言えないほど全てが一致していたんです」
 伸也はそこまで話すと何か悪いことでもしたようにうつむき加減でコーヒーを口に運んだ。
「肝心なところがよくわからないなぁ、イメージするだけなの?」
 源太郎は伸也の説明に不満気に言った。
「特に難しいことは何も無いんです。ただ眠り始めるときに完全に眠ってしまわないように少し注意していればいいんです。フッと体から重さが無くなってしまうように感じ始めたときに、閉じた瞼の奥を見るようにするんです。視野の奥に光が動いているように見えたら、その光の中へ頭から入っていくようにイメージして、そのときにほんの少しだけ由美さんの姿を思い浮かべて、∧行く∨と決めればいいんです。そしたら本当に行ってしまったんです。必死になって努力したわけでもないし、ほんの軽い気持ちだんったんですが、もしかしたらその軽い気持ちが却って良かったような気がします」
「伸也君を信用しない訳じゃないけど、そんな簡単だったら誰でも出来るだろう、そしたら世の中とんでもないことになってるんじゃないの」
 源太郎はまだ不満気だった。
伸也は源太郎に頷きながら、
「僕もそう思うんです。僕に出来たんだから世の中に出来る人は沢山いるはずなんです」
 黙って聞いていた由美が、
「本当は私も試してみたの、色々とね。でも駄目だったわ。伸也さんは特別なのよ」
 と羨むように言った。
源太郎は、
「いくら聞いても信じられるような話じゃないけど、君が嘘を言ってるようにも思えないし………幻覚はいつ頃から見るようになったの」
 と聞いた。
「今のような幻覚は就職してからですね。でも子供の頃から金縛りといわれるようなことは頻繁にあったし、親父に仏壇に置いてある水晶玉と毎日にらめっこさせられたんです」
「水晶玉?あの占い師が使うようなものなのかい」
 と源太郎が呆れたように尋ねた。
「ええ、そのものです。とにかく見ろって言うんです。時々、何か見えるか? と言われて期待に応えようと真剣に見つめていたんです。次の日に鳥の飛ぶのが見えるようになりました。親父は何処へ飛んでいくのかよく見ろって言うんです。こんなことを毎日させられていました」
源太郎は首を傾げるようにしながら、
「仏壇に水晶玉も変わってるけど、親父さんも面白い人だね。で、その親父さんの仕事は何なの」
「建築の設計をやっています。多趣味な人なんですが、息子から見ても変なことばかりに手を出してお袋はいつも呆れているようですね」
「設計屋さんか、それじゃ水晶玉とはあまり関係なさそうだね」
 由美は源太郎を睨みながら、
「もうそのぐらいにしたら、まるで取り調べみたいよ」
 と言うと、源太郎は由美と伸也を見比べるようにしながら、
「伸也君の正体は不明だね、何度も店に来てもらわなくちゃいけないなぁ」
 と笑いながら、
「もう一つだけ聞いていい」
 と伸也を見た。伸也が、
「いくらでもいいですよ」
 と応えると、
「どんな風に見えるの、その、由美の部屋の様子が………テレビの画面のようにはっきり見えるの」
 と聞いた。
伸也は思い出すようにしながら、
「普通って言えばいいのかなぁ、夢で見る世界だってどんな変わった状況でも現実感はあるでしょう。あれと同じでそこに自分がいるんです。感触ははっきりはしないけどあるような気もしたし、香りははっきり感じました。それと、少し明るすぎる感じがありました。光の粒子が飛び跳ねているというか、もしかしたら肉眼よりも詳しく見えるような気もします。その気になればどんどんズームアップ出来そうでした。それが少し違うような気がします」
 源太郎は伸也のカップにコーヒーを入れると、
「人間は分からないことが多すぎるね、伸也君もそう思うだろう………」
「そうですね………自分の正体を知りたい気がします」
 源太郎は、
「自分の正体を知ってるなんて奴がいたら、そいつはかなり怪しい奴だね」
 と言うと、
「ここでは滅多にかけないが、君にいい盤がある」
 と竹満徹をかけた。今まで聴いたことのない種類の音楽だった。眼を閉じて聴き始めると、幾つもの音が体の中心部に向かって恐ろしい程の速度で突き進んでくる。そしていとも簡単にあらゆる心の断片を串刺しにし、なぶるように弄んだり、或いは極上の安らぎを与え深い余韻を残し消えていく。伸也は途中で何度も眼を開けたい衝動に駆られてしまった。それは幻覚を見ているときの安らぎや満足感、そして不安、それらが思い出され重なり合ってきたからだ。何という音楽だろう! 伸也はこの音楽を作った竹満と言う人も幻覚を見ていたに違いないと思った。
 眼を開けるといつの間にか常連らしい客が二人来ていた。伸也と由美が店を出ようとすると源太郎が声をかけ、ここに電話するようにとメモをくれた。
「俺の学生時代からの友人で民族学の学者だ。どこでどう転んだか、シャーマンに深入りして今は瞑想とか幻覚とかの研究をしているよ。学会での評判は悪いらしいが、優秀な奴だからきっと何かの役に立つと思うよ。奴も喜ぶから電話してやってくれ」
そう言うと源太郎は、
「由美は我が儘で手強いぞ」
 と軽く手を振った。

 伸也は大通りまで由美と一緒に歩いた。人通りは少なく街路樹の間を抜けてくる風が冷たい。両手をポケットに入れて歩く肩と肩がぶつかり合う。
「部屋まで送ろうか」
 と伸也が言うと、
「有り難う、でもタクシーで帰るとすぐだから………」
 と少し甘えるような声で言った。伸也は黙って頷くとそのまま歩いた。
「ねえ、こんなカップルってあるかしら。二人とも幻覚を見るなんて………しかも伸也さんはとても不思議なことが出来てしまうのよ。私、自分でもまだ信じられないわ」
「俺も同じ気持ちだよ、自分でもよく分からないし、正直言って不安なんだ」
「叔父さんの言ってた人に電話するの?」
「医者に行くよりいいかも知れないって気がするよ」
「私も一緒に行ってもいい」
 伸也は、
「いいよ」
 と応えると通りに向かって手を挙げた。タクシーが止まると由美は、
「今夜来ていいわよ」
 と言うと車に乗り込んだ。伸也が何か言う前に、
「体は駄目よ」
 と悪戯っぽく笑って言うとドアーがバタンと音を立てあっけなく発車していった。後部座席で小さく手を振る由美が車の流れに吸い込まれ見えなくなった。どこからか竹満という人の音楽が聞こえてくるような気がする。あの人はどんな幻覚を見たのだろうか。灼熱の火星から地球を見たのだろうか。それとも宇宙空間を漂いながら塵の中に生命の起源を見つけたのだろうか。或いは深い海の底で闇の中に生きる命の営みを見たのだろうか。歩道に刻まれた升目を踏みながら頭の中で、竹満、民族学、シャーマン、由美と繰り返した。


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ブレインハッカー 第2章 酒呑童子1 [小説 < ブレインハッカー >]

 第2章 酒呑童子(1)

 潮見博之は八王子にある大学に勤め今年で五十歳になる。自室のマンションはキャンパスから歩いて十分程のところにある。世田谷の自宅から通勤しようと思えば可能だが、不便さを理由に単身赴任生活をしている。家庭的な男でもなく、マンションを買った頃はつき合っている女性も居て何かと都合が良かったのだ。妻も結婚して十数年経つとそういう潮見にはすっかり興味を無くし、八王子まで来ることは一度もなかった。今はその女性とも別れて、生活は不便だが気儘な研究生活をするには都合がいい。 
 一時は都市における民族学といったテーマで異才を発揮し注目された時期もあったが、ある浮浪者と出会ったことから何かがが変わっていった。
 
 その男、村上潤三は新宿ガード下の、今は撤去された段ボールハウスで生活していたが、それを調査のために聞き取りをしたのがきっかけだった。聞き取りと言ってもインタビューのようなものではなく、自分も段ボールを持ち歩きながら、ときには酒を酌み交わし一夜を共に過ごすこともあった。
 殆どの男、或いは女たちの浮浪の生活のきっかけは経済的な問題や、人間関係の壊失と言ったことがその背後にあった。しかしごく少数のそうではない人間がいた。浮浪することでしか生きられない人達である。
 村上潤三もその内の一人で年齢は潮見より少し上である。大学で建築学を学び、卒業後は業界では小さい方だが、急速な業績の上昇で注目されている建設会社に入社し高層建築の設計に携わっていた。都市の建築が高層化していく最も良い時代で、万事が順調であるはずだったが、思いがけない伏兵が自分の心の中に潜んでいた。
 巨大な建築物はいつの時代でも権力側の人間が造るものであり、そのために何かが犠牲となっていく。建築現場で見る反対運動など、補償金目当てぐらいにしか思っていなかったし、社が大きくなることが善で、ある程度の犠牲は当然と考えるオーナーにも違和感を感じることはなかった。
 それがある朝一変しているのである。悩んだ末とか、熟慮の結果と言うことではない。突然嫌になってしまったのだ。権力側にいることも、毎日を順風満帆に暮らしていることも、全てが色褪せ魅力のないものと感じてしまった。ただ自分をその場所に縛りつけている全てから解放したいと願うようになり、無断欠勤三日目の夜を新宿の地下街で過ごした。

 それから二十数年を流浪生活で過ごしてきた。後悔がないと言えば嘘になるが、しかしこの年になると、自分の生き方が妙に愛おしくなってきた。庭つき一戸建てと段ボールハウスにどれ程の違いがあるというのだろうか。村木にとっては大した違いは無いように思えるのだ。大会社の社長と自分にどれ程の違いがあるというのだろうか。大地の上で宇宙を見ながら死ねる自分の方がよほど幸せに思えるのである。
 
 潮見博之が出会ったのは一年前の冬だった。暖かい間は各地を転々と移動する生活だが、寒くなると都市に舞い戻り冬ごもりのような生活になる。十二月の始め頃、伊勢丹から地下街に通ずる階段の踊り場を日中の居所としていたとき、
「何をお読みですか」
 と、潮見が声をかけた。村上が顔を上げると同年輩の男が段ボールを抱えて隣にしゃがみこんだ。風体は自分と同じようだが皮膚は白く柔らかそうでかけている眼鏡はインテリと言わんばかりに見える。
「岩波の新書」
 と答えると、
「ほー、新書ですか」
 と言って覗き込むようにする。お互いに変な奴だと思いながら、二時間もすると気の合うところのあることに気づき、ついつい身の上話までするようになった。潮見が浮浪者でないことはすぐに見抜かれ素性を明かしたが、村上はそんなことなど別段気にする様子は無く却って気に入った風だった。
 それから時々酒を持っては村上の段ボールハウスを訪れるようになり仲間達を集め酒盛りをした。村上はその仲間達の中から面白い奴がいると、九旗昭彦を紹介した。小柄でほかの皆と同じように日焼けした顔をしている。年は潮見より二回り程若そうで、眼はきびきびと動き荒んだものを何一つ感じさせなかった。
「こいつは自分を鬼の子孫だって言うんですよ」
 と村上が言うと、
「鬼さんこちら、鬼さんこちら」
 と、酔っぱらった男達が面白がる。
「鬼の子孫ですか、出身は何処ですか」
 と潮見が尋ねると、
「京都北部の大江山です。うちの田舎で九旗という名字を聞けば大体みんな知ってますよ。鬼祭りでも重要な役どころは九旗家と決まっているんです」
 と言ってコップ酒を飲み干した。酔っぱらった男達は、
「鬼の面でもかぶって踊るんだろう、最後に豆粒投げられて土下座する鬼なんてかっこ悪いよな」
 と喜んでいる。潮見は気にせず、
「どうして鬼の子孫だってわかるの」
 と聞くと、
「先祖からの言い伝えです。田舎には家系図やら、そのことを証明できるものが保存してありますから」
 と答えた。
「家系図なら俺の家にもあったよな、頼朝公側近の家系だぜ、もう三十年ほどお目にかかってねえけどよ。こんなとこにいなきゃぁ、ちっとは尊敬されてたのによ」
 と顔を真っ赤にした男がわめいた。
潮見は男に、
「まぁまぁ」と酒を注ぎながら、
「証明できるモノって何ですか」
 と尋ねると、
「すみません、これは親父から話を聞いただけで見たことはないんです。代々長男しか見てはいけないことになっているんです。もちろん女は嫁に出るから駄目だし、分家する次男でも見られないんです」
 と申し訳なさそうに答えた。潮見は彼の正直そうな話しぶりに興味をそそられ、
「九旗というのは、九人のことですか」
 と尋ねた。
「ええ、そのようです。いつ頃の昔か詳しく聞いていませんが、地元の神社が出来るよりも昔のことだと思います。その頃は大和に強い権力があって、大江の人たちは服従を嫌い勇敢に戦ったと聞きました。その戦いには負けましたが九人の強者が山深く逃げ込み、以後復讐を誓い合う意味で全員が九旗と名乗るようになったようです。大江地方にとって、彼らは征服された恨みを晴らし自由を守る英雄豪傑でも、支配者にとっては権力を脅かす大悪党なんです。都の武勇者が血眼になってその九人を追いましたが、巧みに移動しながら逃亡生活を続け、ときには宮中を襲い人々を震え上がらせました。その間のことは逸話として残っていますが、都で作られた話は大江の連中を醜い鬼と呼びました。地元に残る伝説の鬼は気は優しくて力持ちなんです。それでも次第に追いつめられて、その後は六人まで捕まえられてしまいました。六人は処刑されることなく三人は大江山に残され、残りの三人は紀州に移されました。理由はよく分かりませんが、その地方を治める為に利用されたようです。お祭りの役まわりもそのことと関係があると聞きました。古文書では後の三人は逃亡中に殺されたと記録されていますが、実は生きていて密かに連絡を取り合っていたそうです。勿論九旗は名乗っていませんが、その中に都が最も恐れていた首領がいたといぅことです。今では大江に分家で増えた九旗家が十三軒あります。本家筋の三軒も健在です」

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酒呑童子2 [小説 < ブレインハッカー >]

酒呑童子(2) 

 九旗昭彦はそこまで話すとコップに口をつけた。
酔っぱらった男達も次第に耳を傾け始めていたが、
「戦に負けた残党なのにどうしてそれが鬼と言われたんだ」
 と、突っかかるように訊いた。
「仏教説話に出てくる鬼を真似て、都を襲うときには顔や身体に紅を塗り、真っ赤な着物を着ていたと伝わっています。きっと誰だってそんな姿を見たら恐ろしいですよ。奪った金品の大半は大江の人に分け与え、地域の人も密かに支援して、本当にしつこく、今で言えばゲリラ的な抵抗を続け、征服された恨みを幾分かでも晴らすことが出来たんです。元々あの地域は渡来人の子孫が多く、今で言うなら民族紛争のようなベースもあったかもしれません」
「民族紛争ですか………大江山の鬼は有名ですが一般に知られている鬼とは全然違いますね」
 と潮見が面白そうに言った。
「ええ、違うんです。それに本当に凄い力もあったそうです。今で言う気功師のようなこととか、催眠術のようなこととか、呪術に占い、それに病気の治療も出来たようでした。首領格の男は元々優れた力があったそうで、残りの八人も修練を重ねて中にはかなりの力を身につけた者もいたようです。本家筋の三軒の家では今でもその修練方法を正確に伝えていて、子供が十五歳になるまで実践しています。私は一応本家の次男坊なので一通りの修練は受けてきました。でも、あまり素質は無いようで親父もそこそこに仕込んだようです。この修練には奥義のようなものがあってある時期になると長男に伝えるようで、親父が死ねば、他の家の者が長男に伝えて絶えないように協力し合っています。長男が死ねば次男、男がいなければ女にも伝えたそうです。何でそこまでするのかと思いますが、自分の代で終わらせることは誰もしないようです。それにいざというときの九旗一族の結束は今でも凄いものがあります。私はそれが嫌で家を飛び出したところもあります。それに先祖が転々と移動して暮らしていた頃の何かが私の中にあるのかも知れませんね、もっといいものが伝わっていればよかったんですが」
 と言って九旗昭彦は屈託のない笑顔で笑った。
潮見はどうしてこの男はこんなにいい笑顔で笑えるのか不思議に感じながら訊いた。
「その修練で何か身につきましたか」
「子供の頃は勉強に絶大な力を発揮しましたね。試験のときには、読んだところなら教科書を丸ごと頭の中で思い出すことが出来ました。だから成績はずっとトップでした。今でも少し時間をかければ、単行本一冊程度なら暗記できると思いますよ。まぁ、暗記と言うより、頭の中に浮かんでくる本を読むだけですが。それに催眠術ならかけられますよ。これは、自分で出来るようになったんですが。やってみましょうか」
 と潮見を嬉しそうに見て言った。
「いいですが、大丈夫ですか、術が十分に解けないってことはありませんか」
 と不安そうに言うと、九旗は、
「心配ありませんよ、実証済みですから。今までにアル中の人を何人も酒と縁を切らせましたから。村上さんもその一人なんですよ」
 と言いながら村上に視線を向けた。
「いや、こういう暮らしだからいいんですがね、おもしろ半分のつもりだったんですよ。それに全然飲めなくなるのはつまらないんで、一合ほど飲んだら気持ちよくなってそれ以上飲むと気持ち悪くなるようにしてくれって我が儘な注文をしたんですよ。まさかと思ったんですが、本当にそうなってしまって、おまけに本の虫になってしまいました。奴はしてないって言ってるんですが、おまけの催眠をかけたろうって言っているんですよ。まぁ、迷惑はしてませんけどね」
 と言って笑った。
あまり気は進まなかったが、
「それじゃ、ものは試しでやってもらいましょうか、でもかかりにくいかも知れませんがいいですか」
 と言った。
九旗は、
「大丈夫です、時間はかかりませんから」
 と言って、潮見の瞳の奥を覗き込むような視線を向けてきた。潮見もその眼の力に対抗するように見つめ返すと小さな声で聞いたこともない呪文のような言葉をしゃべり始めた。潮見は何を言っているのかその言葉に集中し始めると突然剣道の試合のような声を出した。潮見が驚いたような顔をしていると、九旗は、
「かかっているはずですよ」
 とにこにこしながら言った。潮見が、
「特に何も違いはありませんよ」
 と言うと、
「右手がどんなに頑張っても動かなくなっています」
 と言った。潮見はそんなはずはないと動かそうと思ったが、どんなに力を入れても右手はまるで突如神経が通わなくなったようにピクリとも動こうとしなかった。見ていた他の男達が潮見の右手を動かそうと二人がかりで引いたり押したりしてみたがやはり動かなかった。男達は、
「凄い力で腕が固まっているようだ」
 と言い、潮見も何の自覚もないままに他人の思うがままに体が反応していることが不思議でならなかった。
「早く解いてもらえますか」
 と苦笑すると、
「全身が軽くなって動くようになります」
 と九旗が言った途端にとても心地よく体から力が抜けて動くようになった。暫く右手を曲げたりのばしたりして首を傾げていたが、
「今のは一体何ですか、自分の体が突然動かなくなるなんて………これは本当に催眠術なんですか」
 と潮見が尋ねると、
「普通は言葉や何か物などに気持ちを集中させある程度時間をかけて心理誘導していくのですが、私はより直接的に脳に働きかけています。瞬間的に脳にある種の刺激を与えると、まるで無防備な状態になるんです。そのときに何というか、スイッチを切り替えるようなことをしました。スイッチを切り替えさせてくれる隙さえ作れば以外と簡単なことです。優れた武道家の中には同じ様なことをしている人がいるんですよ。要は脳に隙を作らせることなんです」
 と何事も無かったように話した。
「頭のスイッチ?ですか。説明を聞いてもちょっと理解できませんが、九旗一族の人は皆こんなことが出来るんですか」
 と驚いた様子で聞いた。
「そうですね、持っている力は様々なようで出来る人もいれば出来ない人もいます。それに色々あって私のように人前ではあまりやらないんです。聞いた話では、大江の九旗家よりも逃亡した三人の血筋が凄いらしいです。こういうことって遺伝するものなんでしょうかね?」
「勿論能力が遺伝することは多いと思いますが、何世代にもわたってと言うのはどうなんでしょうね、ただ遺伝子のどこかにぼんやりとした記憶として残ることは大いにあり得ると思います。それが受け継がれた修練によって、呼び醒まされ強化されていくことはあっても不思議ではありませんね。勿論その人の能力や才能にもよりますが」
それまで黙って聞いていた村上潤三が不思議そうな顔をして話に割り込んできた。
「その頭のスイッチと言うのを昔聞いたことがあるような気がして、ちょっと考えていたんですが思い出しました。昔勤めていた会社の社長が同じ様なことを言っていたんですよ。相手の頭のスイッチをちょっと切り替えればいいんだって。そうすれば大抵のことはこちらの思い通りになるんだと。そんな巧くいく筈は無いと思っていたんですが、本当にそうなって社内では社長が動けば大丈夫とちょっとカリスマ的でした。業界の連中は裏で何かしているに違いないと疑っていたようですが、何も出てきませんでした。今の話を聞いていると社長にも彼と同じ様な力があったんじゃないかって気がしてきました。数ある建設会社の中で特に優れてる訳でもないのに、どちらかと言えば二流三流だったんですが、見る見る大きくなっていったんです。そりゃ嬉しかったですがね、でも客観的に見て受注出来る筈のない大型プロジェクトが何故か来るんですよ。それにもう一つおかしなことがあって、誰もそんなことは言わなかったですがね、でもみんな薄々感じていた筈なんです。競合するライバル社に勝つときは必ずって言うほど相手方に事故があるんです。いろんな事故です。だから他社にいる親友にウチと張り合うときは気をつけろって冗談半分で言ってたくらいなんです」
 そう言うと村山はコップ酒を一気に煽った。
「まさか九旗家の人が関係していることはないでしょうね」
 と潮見が訊くと、
九旗は、
「大江の九旗は私達兄弟以外は地元で暮らしている筈ですが、それ以外は音信不通なので分りませんね。でも修練された九旗家の人間なら似たようなことは出来るでしょうね。落ちこぼれの私だって相手に気づかれず催眠をかけることは出来ますからね。潮見さんにかけたときはあれでも多少大袈裟にしたつもりなんです。本当はもっとさりげなく出来るんです」と答えた。
 
 潮見は今までの民族学研究の中で、地方の様々な伝承や民話に接する機会は多く、鬼にまつわる話も数多く知っていた。九旗の言う鬼が酒呑童子であることは、大江山の地名を聞けば誰にもわかることであるが、その内容は今まで聞いたこともないことだった。確かに京都の近くに鬼の子孫と呼ばれる人たちが住み、髷の形によって身分を表していた時代に髷を結うことを免除されていたことを知っている。しかしそれは過去の話で大江でもなくまた、現在ではその人達の今を知ることは出来ない。九旗との出会いは潮見を少なからず喜ばせ、興奮させた。異界に生きる者達はいずれ滅びる運命にある。歴史の中では次第に追いつめられ、辛うじて社会の片隅で喘ぐように生きていた者達もやがてその姿を歴史の中に消していった。九旗家の祖先は異界から秩序の世界へ引きずり出され、利用され、滑稽な者として生き続けることだけが価値として認められ年月を重ねてきた。その子孫が異界の鬼であり続けるための修練を、連綿と生きた形で今に伝え実践していることは奇跡に近いことである。潮見は大江山を自分の目で確かめ、九旗家の人と会ってみたいと思った。酔っぱらった男達がゴーゴー寝息を立て、九旗が自分の段ボールに戻りかけたとき、潮見は大江町の案内を是非にと頼んだ。
九旗は澄んだ瞳に懐かしさを浮かべたが、
「私はまだ行けません………この暮らしのことではないんです。田舎を出るとき、私は鬼になろうと決めたんです。今もその想いは強く持っているんです。具体的にこうなればと言うことでもないんですが、でも私は必ず自分の想う鬼になれると信じているんです。そのときは是非ご一緒したいと思います。もっと詳しい話を聞きたいのなら実家には連絡できますから」
 と言って潮見の誘いを断った。
 同行は断られてしまったが、実家への連絡はしてくれるということで、翌日には旅館などの手配を済ませ出かけることにした。思い立ったらすぐに動いてしまうのは若いときからの習性のようなものだが、今回のような居ても立ってもいられない高揚した気持ちは久し振りだった。民族学では、人々が心の中に封印してきたことを、民話や言い伝えの中から探り当て、本当の歴史や真実を浮かび上がらせる。いわば、鎮魂歌の様なところがある。大江山の酒呑童子が源頼光に討たれるとき
「鬼に横道なきものを」
 と言って絶命した逸話が残っている。鬼の生き方に真実があると言うのだ。丹波の大江山に行けばその真実に巡り会えそうな気がした。

 

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ブレインハッカー 第3章 大江山伝説(1) [小説 < ブレインハッカー >]

第3章 大江山伝説(1)

 京都駅で山陰線に乗り換えると、まるでタイムスリップしたような気分になる。京都市街の家並みがぷつりと途切れると、次にはもう笹の葉に手が届きそうなところを走っている。青空が消え、濃い灰色のグラデーションがどこまでも続く。京都は三方を山の扉で閉ざされた別世界で、京都市街が周りから隔絶された異界なのではないかと思えてくる。電車の屋根が擦れそうな狭いトンネルを幾つもくぐり、幾つもの山の間をすり抜けると福知山に着き、そこから北近畿丹後鉄道に乗るといよいよ大江町である。

 駅前には午後二時過ぎに到着し、予約したタクシーが待っていた。九旗昭彦に聞いた住所と名前を言うと、「大江町九旗宅ご案内」
 と言って勢いよく走り出した。運転手は九旗家を知っているらしく、雑談をしながら潮見が何者か知りたい様子だった。
潮見が、
「九旗さんとお知り合いですか」
 と尋ねると
運転手は、
「中学の息子があそこの娘さんに世話になったんですわ、担任の先生だったんですよ。荒れた学校だったんですが九旗先生が来てから随分変わったって親の間では評判になりました。会われたら運転手が宜しく言ってたと伝えて下さい」と言って、
「あの家ですよ」
 と一軒の家を指さした。運転手の指さす方を見ると、小高い山の中腹に合掌づくりを一回り小さくして。屋根を藁から瓦に葺き変えたような家が見える。裏には竹藪が屋根に覆い被さるように伸びている。家の前は広くなっていて、ジープと乗用車が並びその前には葉を落とした柿の木や、銀杏の木が見える。もっと古めかしい家をイメージしていたがここら辺りでは何の変哲もない佇まいは、何年も続いた鬼の家系とはほど遠い感じがする。表札の九旗儀策を確認すると、
「ごめんください」
 と声をかけた。
奥から七十前後の小柄だががっしりとした体格の老人が出てきて、
「これはこれは遠いところからお疲れでしょう、昭彦の父の儀策です。お待ちしてました。狭いとこですけど上がって下さい」
 と表座敷に案内された。正面全体が床の間のように一段高く、その中央に黒檀の仏壇がある。それは邪な者の侵入を許さない威圧感を感じさせ、歳月だけが出すことの出来る光沢を放っている。他には何の飾り気もなく潔い。
一枚板で作られた風格のある座卓の前に腰を下ろし暫くすると、二十七八と思われる女性がお茶を持って出てきた。さり気ない身のこなしに一本筋の通った躾の良さを感じさせる。
「末娘の静恵です。」
 と紹介されると、
「兄がいつもお世話になっています」
 と挨拶しそのまま同席した。
潮見も親子と対面する形で自己紹介しようとすると、
「先生のことは全部聞いて知っとりますんで、まぁまぁお茶でも飲んで下され」
 と話し出せない。
「ほんまにうちの愚息はふらっと東京へ出て行ったたまま鉄砲玉みたいな奴で、もう何考えとるんだか、まぁ、先生のような方のお手伝いさせて頂いとると聞いてひと安心ですわ。本当にお世話になります」
 と儀策は深々と頭を下げた。
潮見もお礼を言い、そのまま大江地方の話をひとしきり聞くと、   
「録音していいでしょうか」
 と話を切り出した。

「大江山の酒呑童子についてですが、九旗家の先祖がそれに当たるのでしょうか」
 と、昭彦から聞いたことをもう一度確かめた。
「ええ、正確には酒呑童子を首領とした仲間の子孫と言うことになります。昭彦から聞かれたと思いますけど、九旗家は酒呑童子を入れて九人から始まりました。最後は都の討伐隊に追われて六人が捕まり、大江で見せしめのように生かされた三人が私らの先祖さんになります。酒呑童子は逃亡組の三人の中にいました。京都近くの老ノ坂峠辺りで伐たれたことになっていますが、実際は逃亡に成功していました」
「記録やお伽草子では源頼光が倒したことなっているようですが、これは違うと言うことですね」
 と潮見が尋ねると
「三人の内二人は斬り殺されて、残った童子も追い詰められ崖から身を投じたそうです。首を取られるより獣の餌にくれてやる方を選んだと言うことですな。このときに<鬼に横道なきものを!>と叫んで宙に飛んだと伝わっています。

  首塚が残っているんですが、あれは二人のどっちかでしょう。頼光は都へ偽首を持ち帰れもせず、途中で急に首が石のように重くなったと嘘を言ってさっさと埋めてしまったんでしょう。童子は奇跡的に一命を取り留めて農民に助けられました。一目で童子と判って、かくまわれていました」
「童子はそれからどんな生き方をしたんでしょうか」
 と潮見は録音テープを確認しながら訊いた。
「助けられた農民の娘と暮らしたことになっています。定かではないんですが、童子は修行僧だったようで、学問があり日記を書き残したそうです。代々伝えられていたそうですが、火事で全て無くなり記憶を頼りに書き記した古文書が残っています。昭和初期に亀岡に住んでいた子孫が、一度だけ歴史家に見せたことがありますが、たわいない作り話と一笑に付されてしまったそうです。頼光を英雄から大嘘つきに転落させることは出来なかったんですね。

  その古文書に由れば、崖から飛び降りたときに頼光の太刀を受け片方の足を失いました。仕事は殆ど出来ず貧しい暮らしをしていましたが、娘との間に三人の子をもうけ、農民の子には不釣り合いな学問を仕込んだそうです。中でも力を入れたのが精神の修練で、次第に円熟し洗練されたスタイルに完成させました。それは時代の最前線で中央権力と戦いながらも、後半生を貧しい農民として生きざるを得なかった童子の誇りでもあったわけです。童子は鬼として生き続けようとしたんでしょうね。そのスタイルは生き残った仲間にも伝わり今に受け継がれています」

   「その古文書というのはどこにあるんですか?」
「今は行方不明です。歴史家に見せた昭和初期には確かに子孫が亀岡市に居た筈なんですが、戦後は子孫が絶えたのか連絡は取れません。昔から九旗講と言う名前で三年に一度七人の子孫が集まることになっているんですが、戦後は童子の子孫と紀州に住まわされた三軒と連絡が取れなくなり大江の三軒だけになっています。まぁ、こんな集まりも私の代で終わってしまうかも知れませんがね、倅たちは皆鉄砲玉みたいで何処に居るんだか……」 と儀策は静恵を見て寂しそうに笑った。
   静恵は父の言葉を続けるように、
「実は一年前から長男が行方不明なんです。やくざと喧嘩をして車で連れて行かれたところまでは判って居るんですが………やくざと喧嘩をするような兄ではありませんでした。きっと何か訳があるんです。次男の昭彦が色々調べていましたが突然何も言わずに居なくなりました。兄は先生に何か言ってませんでしょうか」
 と心配そうに尋ねた。
潮見は、
「そうですか、お兄様がいらっしゃったのですか。そのような事情とは知りませんでした………彼からそのような話は何も聞きませんでしたが」
 と応えた。
静恵は、
「そうですか………」
 とだけ言うと、湯飲みにお茶を注ぎ足した。
儀策が、
「つまらない話を………」と言いかけると、
「兄は殺されたんです」
 と静恵は小さな声で言った。
儀策は厳しい表情で静恵を見ると、
「馬鹿なことをを言うんじゃない」
 とたしなめた。
静恵は奥歯を堅く噛みしめた様にして俯き、アラジンストーブの上に乗せられたやかんがジンジン音を立て始めた。

 

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大江山伝説(2) [小説 < ブレインハッカー >]

  

                  第3章 大江山伝説(2)

  大江町から国道一七五号線を南に二十キロ程行くと福知山盆地に入り、しばらく進むと右手に小高い丘が見えてくる。旅館<清水苑>はその一番上に建ち、他には何もない。この地方では最も古い旅館で、木造の建物が木立の中に薄ぼんやりと浮かんでいる。タクシーが玄関に止まるとようやく屋号が見え、白熱電灯で照らされた玄関に和服の女性が出迎えに出てきた。温泉がある訳でもなく、特別料理が旨いという訳でもない。夏場には幾らか賑わうがこの時期には客が激減する。。

 二回が客室になっているが物音ひとつせず他に宿泊客は居ないようである。食事と風呂を部屋で済ますと、窓際に置いてあるソファーに腰を下ろし録音テープを聞いた。静恵は何を言いたかったのか………
「殺された」
 と言った後は一言も話すことは無かった。儀策にとっても静恵の言葉が以外だったことは顔に表れていた。儀策はその言葉を無かったことのようにして別の話を続け、とうとう潮見はそのことを最後まで聞けなかった。

 部屋の明かりを消し外を眺めると、先程通った一七五号線の向こう側にぼんやりと由良川が見える。水面が月明かりを鈍く反射し闇の世界の者を通す道のようだ。
古代の丹後、丹波は文化的にも秀でた地域であった。それはフィリピンから黒潮に乗ってやって来た海人族が九州を経て日本海に入り、やがて目の前を流れる由良川を遡上し内陸部までその足を延ばしたからである。

 彼らも潮見と同じようにこの丘から鈍く光る流れを見たに違いない。そしてその鈍い光は冷気を風に乗せると斜面を一気に駆け登らせ、今にも折れそうな小枝に悲鳴を上げさせる。九旗儀策の話は童子を生き生きと蘇らせ由良川を見下ろす闇の中に立たせた。後ろ姿が闇の中に浮かび上がり、後ろで束ねられた髪の毛が小枝の下で激しく揺れている。
 
 潮見の中に蘇った童子はいつの時代にも生き、そしてこの闇の中から由良川を見下ろしていたのではないだろうか。清水苑を包み込む闇の中に数千年の時が渦巻いている。

 ジリジリと鳴る時代遅れの電話で潮見の畏れにも似た想いが現実に呼び戻された。フロントにお客様だという。名前を聞くと九旗静恵だった。
あの話に違いないと思い、急いでフロントに行くと、
「お休みのところ突然申し訳ありません。少し聞いて頂きたいことがあるのです……」
 と丁寧に頭を下げて言った。
部屋はすでに夜具が敷かれてあったがそのまま丸めて隅に押しやり、座卓を電灯の下に引きずり出すと静恵を招き入れた。

「先生には突然で信じられないと思いますが、私の兄は殺され、昭彦兄さんも追われているんです。今すぐ私と一緒に此処を出て下さい」
 潮見は静恵の表情からただならぬものを感じた。
「えっ………」
 すぐには言葉が出なかった。
「今すぐ?」
「外に連中が居るんです」
「連中?」
 潮見は腰を上げ外を確認しようとしたが、
「気づかれます」
 と止められた。
「兄を殺した連中で、清水苑前の道に駐車しています」
「警察に通報すればいいじゃないですか」
 と言うと
「そんなことをしても無駄なんです。長くなると怪しまれますから先生お願いです。後で納得できるようにお話ししますから今は私の言うことを信じて下さい。お願いです」
 静恵は真剣だった。
潮見は腕組みをすると、先程明かりを消して外を見たとき車が駐車していたのを思い出した。月明かりで色は分からないが大きなセダンだった。考えてみれば駐車場はがら空きなのに、わざわざ遠くに止めるのも不自然だし、客が居る気配もない。あの場所でないと木立に阻まれて玄関や潮見の部屋を見ることは出来ないように思えた。
潮見は訊きたいことが喉まで出かかっていたが、静恵の目を見ると言えなくなった。

 潮見は、
「わかった、とにかく貴方のいう通りにしましょう」
 と心を決めた。
静恵は、
「はい」
 と短く返事をし、
「急いで荷物をまとめて下さい」
 と言った。
 厨房から裏口を抜けると竹藪がありその先は雑木林が続く。
「私について来て下さい」
 と静恵は旅館の非常用懐中電灯で足下を照らした。人が一人通れる程の道が闇の中に吸い込まれている。
「この道を抜けると下の村に出ますから、二十分程です」
 言われるまま静恵の後をついて行くと下り坂になり、墓地らしい石塔が影絵のように見えてきた。前を黙って歩く静恵が不気味に思える。何かこの世の者ではないモノに易々と騙されてこんな処に連れてこられたような気分だ。不安を打ち消すように、
「まだですか」
 と訊くと静恵は、
「もうすぐです」
 と振り返りもせず素っ気ない返事をするだけである。墓地を過ぎると道が広くなり視野が開けた。平地はほんの僅かですぐ向かいには低い山がある。その山の手前に一本の舗装された道があり、その道を挟むように人家が見える。
静恵は初めて振り返ると、
「あそこです」
 と指さした。和風の2階建てと古い倉がL字になっている。
「こんばんは、九旗です」
 と勝手に中に入り静恵が声をかけた。中から、
「静恵先生、大丈夫ですか、用意は出来てますよ」
 と中年の男が出てきた。九旗家に行くときに乗ったタクシーの運転手で九旗紀夫といい、静恵の分家筋に当たる。
「ご存知でしょう、本当はタクシー会社の社長さんなのですが、予約が入ったら乗せてもらうようにお願いしていたんです。色々心配なことがあったものですから………」
 と静恵は紀夫を紹介すると申し訳なさそうに笑った。
潮見は、
「随分と用意周到なんですね、私とどういう関係があるのかそろそろ教えてもらえますか」
 と尋ねた。
「車に乗ってからお話ししますから、もう少し我慢して下さい」
 と静恵はまだ教えてくれそうにない。それどころかまだ車に乗せてどこかへ連れていこうというのであった。
潮見は少しうんざりしながら、
「どこまで行くのですか」
 と聞くと、九旗紀夫が、
「私が東京までお送りします」
 と答えた。
「東京まで……ですか」
「はい、それが一番安全ですから」
 と静恵は言い、
「それじゃお願いします」
 と紀夫に軽く頭を下げた。

 国産の大きなワゴン車に紀夫親子が前に乗り、セカンドシートに静恵と潮見が乗った。
静恵は車が走り出して暫くの間しきりに後ろを振り返り落ち着かなかったが、後続車が無いことを確かめるとやっと口を開いた。

「世の中に権力者と呼ばれる人は沢山いますが、一番怖いのは心を操る権力者なんです。私たちをつけ狙っている連中は、そうなるために私たちを利用しようとしているんです。詳しいことは分からないんですが、米軍と防衛庁が関係していることだけははっきりしています」
 潮見は米軍とか防衛庁という言葉に実感が無く、他人事のように
「米軍が何をしようと言うんですか」
 と聞いた。

 

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タグ:大江山 小説
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大江山(3) [小説 < ブレインハッカー >]

         ここに目を通して下さり、ありがとうございます。 長いから読むのたいへんだし。

でも、これ書くの、読む時間の何倍費やしたのか・・・・気が遠くなる。雑文で申し訳ないです。
では続きを・・・・


                             大江山伝説(3)

   「話は第二次大戦になりますが、当時の軍部が偶然にも酒呑童子の家系に伝わる古文書を発見したことから始まりました。その古文書には童子の家系の者は代々伝わる修練をして、様々な特殊能力を持つことが記されていたそうです。

 更に天皇を真っ向から否定し盗賊の首領と断罪する過激な内容だったと聞きます。当時の軍部が放って置く筈もなく、何人かの家系の者が捕らえられ厳しく追及されました。大江の者はその古文書はインチキで自分たちには全く関係ないと言って難を逃れたのですが、亀岡の若い男だけはそのような言い逃れを潔しとせず、代々伝わる古文書に偽りはないと言い切ったそうです。

 それが発端となってその特殊な力を軍が知り利用されました。どの様な形で利用されたのかは分かりませんし、その男や家族の消息も全く分かりません。兄が言うには、戦後それらの資料が米軍の手に渡り、今頃になって米軍で研究され始めたようだと言っていました。
 
 とにかくその頃福知山の自衛隊駐屯地から士官が来て研究に協力して欲しいと依頼がありました。兄はすでに特殊な力が備わりつつあり、一部の人たちの間で病気の治療やまた、様々な相談などにも乗っていました。そんなことも調べた結果だとは思いますが一族の中から兄に依頼が来ました。大学への進学と奨学金、研究が終了するまでの間の謝礼。兄にとっては飛びつきたくなる条件でしたし、不審な点は無かったように思います。ただ子どもの頃から仕込まれた代々伝わる修練も研究対象にするということで、父は強く反対していましたが、結局押し切って横浜の大学に入学しました。

 しばらくの間はどこの実験室にもあるような装置を使った退屈な実験が続いたようでしたが、と言っても研究者にとっては兄の出すデータや結果は目を見張るものばかりだったようです。しかし連中が本当に研究したいことはそんなことではありませんでした。代々伝わる修練は、命に及ぶような攻撃に遭遇したとき、それを回避する為のいわば護身術なんです。その方法の一つとして、相手の精神とか脳に侵入して思考や行動を意のままにコントロールすることなんです。

 資料からそのことを知っている彼らはその力を研究したかったのです。一通りの研究データが揃うとそれまでと違って米軍基地内の研究室に場所が変わり、内容も厳しいものになりました。

 肉体的にも精神的にも追い詰められたような状態での軟禁状態が続き、外部との連絡や接触はいっさい許されませんでした。接触できるのは研究スタッフと、兄と同じ様な被験者でした。兄は連中に、協力すれば此処から出られるし、協力しなければ君を消すこともできる。軍と警察は自由に動かせると言われたそうです。実験には常に屈強な男達が立ち会い何をする隙もなかったのですが、その状況を切り抜けられたのは兄の特殊な力でした。

 連中もそこの処についてはまだ過小評価していたようで、そのおかげで脱出出来たのだと思います。兄に特殊な力があるといってもスーパーマンじゃないですから。それでとにかく当時学生で都内に住んでいた次男に一部始終を話してすぐこちらに帰ってきたのですが、その途中で行方不明になりました。

 私たちが知っているのは数人の男に暴行を受け、そのまま連れ去られたところまでなんです。だだ連中が私たちの監視を執拗に続けているのは兄が生きているか、次男が何か秘密を握っているか、もしかしたらその両方かも知れませんが………。電話は確実に盗聴されています。次男の昭彦は先生の名前も言いませんでしたし、ただ鬼の話を聞きたい人が行くので頼むとだけ言いました。先生には申し訳ないのですが連中の出方を見たかったのかも知れません。何もなければそのまま帰っていただいたのですが結果はご存知の様に予想以上でした。

 こんなに動きが早いとは何か余程のことがある筈なんです。旅館にも手を打っておいたので先生のことはまだ連中は何も知らないはずですから、このまま尾行されずに東京に戻れれば、普段の生活をしても大丈夫だと思います。私たちは一緒に東京まで行って昭彦の居所を教えてもらえればそれで結構です。それから家での会話は盗聴されている可能性もあるので、兄は殺されたことにしたのです。色々辻褄の合わない変な話やら、嘘を言ったりして申し訳ありませんでした。どうか許してください」

 話し終えると静恵は、
「私たちでさえ信じられないようなことですが、でも事実はそれ以上かも知れません」
 とつけ加えた。
潮見はしばらく腕組みをしていたが、
「警察は当てにならないんですか」
 と聞くと静恵は、
「ええ、一番信用できません」
 と答えた。
「追ってくる連中は何をそんなに恐れているんですか、社会的には何の発言力も力もない若者をどうして恐れる必要があるんですか」
「連中は兄が証拠を持ってマスコミの前で話すことを恐れているのだろうとおもいます。だから両方を消してしまいたいのです」
「何の証拠ですか」
 と潮見が尋ねると、
「兄は、ベトナム戦争の行方不明者が研究所に居たと言っていました。きっとそのことかも知れません」

「ベトナム戦争ですか?ずいぶん昔のことですね」
「ええ、どこでどうなったのかは知りませんが、もうかなりの年齢のはずです。連中は人の人生や命を自分たちの玩具のように自由にすることが出来るんです。」
潮見は深く息を吐き出すと、
「こんな話を信用しろというのは無理なことに思えますが、貴方が嘘つきには見えないから困りました。でも一応ここでは信じることにしておきます」

 そう言うと潮見は表情を和らげた。
静恵も表情を和らげ若い娘らしい笑顔を見せた。
「日本は平和な国だと思っていましたが、そんなのは見せかけだと分かりました。その気になれば一人の人間の人生や命なんか指先一つでどうにでもできるんですね」
助手席で紀夫の息子が頭を窓に押しつけるようにして眠っている。彼も九旗家の血を受け継ぎ特殊な力を持っているのだろうか。

 

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