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幻覚5 [小説 < ブレインハッカー >]

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幻覚(5) 

 <ここまで彼は来ているのかしら>
 由美はそう思うと、いつもより簡単に体を洗うと浴槽に身を沈めた。首まで体を沈め足先を浴槽の端に乗せると天井の方を見上げるようにした。それからゆっくり視線を動かし、室内を一巡するようにした。
<もし彼がここまで来ていればどこかで目が合ってるはずだわ>
 由美はそんな風に考えると、どこかで視線が合ってうろたえている伸也を想像し、くすっと笑顔を見せた。それから今度は自分の体を眺め、どんな風に見えているかを想像した。自分の体の中で気になるところは太腿くらいで、尻や乳房は形も良く伸也にちょっぴり見せたい気もする。肩のあたりまでお湯から出すと、乳房が浮力で少し浮き、小さな乳首がお湯から出てきた。指先で少し摘むとピクンと心地よい。伸也の視線を想像するだけで乳首は敏感に応えてツンと堅くなってきた。由美はもう一度天井を見上げたり、室内を見回し伸也の気配を感じないか確かめてみたが、それらしい何かを感じることはなく、ホッとしたような、しかし物足りないような複雑な気持ちがした。由美はもう少し悪戯していたかったが、もしかして、と思うと恥ずかしく上がることにした。

 伸也は少し汗をかいて目覚めた。時計を見ると十二時過ぎだった。今まで由美の部屋にいた感覚が残っている。バスルームの香りだって思い出すことが出来るし、乳房の下にあった小さなほくろも覚えている。間違いなく由美の部屋へ行ったに違いない。目覚められたことがとても幸運だったように思えたが、とにかく本当ならとんでもないことが出来てしまったのだ。急いで由美に電話をかけ、
「自分でもまだ信じられないけど、とにかく行けたよ、何か気づかなかった?」
 と興奮気味に話した。
「本当に来てたの? 私の部屋に?」
 と、由美は半信半疑で応えた。
「絶対本当だよ、間違いなく君の部屋で、そこに君が居たよ。君が風呂に入ったことだって知ってるよ」
「疑う訳じゃないけど、本当に本当なの?」
「本当だよ、悪いけど全部見ちゃったんだから」
 と、伸也は由美の肢体を思い出しながら言った。
「全部って? 何のこと?」
 由美は少し恥ずかしそうに聞いた。
「だつて、目の前で脱ぐんだからしょうがないだろう。鏡の前でポーズなんかとるからだよ」
「え、本当なの、本当に来たの、凄いことよ、私信じられないわ、じゃあ、まさか、お風呂の中まで来たの」
 と由美は興奮気味に言った。
「ごめん、見ようと思った訳じゃないけど、でも見えちゃったんだよ、なんて言うのか、視線が勝手に動いていって見えちゃうんだよ」
「じゃあ、お風呂の中も見えたのね?」
 と、由美は小さな声で聞いた。
「うん、少しね、でも途中で目が覚めちゃったけど」
「でも、見たんでしょう」
 と由美は観念したように言った。
「ありがとう、素敵だったよ、胸のほくろが気に入ったよ」
「ええ、そんなところまで見えたの、私恥ずかしいわ」
「まぁ、一応君の期待通りに行けたんだから少しぐらいいいだろう。でも、本当に驚いたよ、俺だってまさかこんなことが出来るなんて思ってもいなかったからね、こんなことが出来る人、他にもいるのかなぁ、知らないだけで結構いたら怖いね」
「いるかも知れないわよ、あなたの近くに」
 由美は最後の方を意味ありげにゆっくりと話した。
「冗談だろう、まさか由美も?」
 伸也は少し大きな声で訊き返した。
「冗談よ、でもね、まだあなたには話して無かったけど、見るのよ幻覚を。きっとあなたの見る幻覚と似ていると思うの。ほら、今日話したでしょう、ピアノはリハビリのつもりだって。あれはピアノを弾いているときに幻覚を見ないようにする練習のつもりなのよ。でも、今はリハビリが本業になりそうだけどね」
 由美の意外な告白は伸也を驚かしたが、声を聞いていると入浴剤の香りがしたような気がした。
「それで解ったよ、俺の話を熱心に聞いたり、真面目な顔で部屋へ来いって言った訳が。でもどうしてそんなことが出来るって思ったの」
「出来るって思った訳じゃないけど、自分の幻覚のことが知りたくて色々調べたのよ、それで、似たようなことが書いてあったのを思い出したの。人間って本当に不思議なのよね」
「じゃあ、由美だって出来るんじゃない」
「本当は色々試してみたけど駄目だったわ。コントロール出来なかったの。今だっていつ幻覚になるか分らないし、今日だってタクシーに乗っているときに突然なったのよ。今までは、ピアノを弾いているときが殆どだったのに、いつ来るか分らなくなったわ」
 由美は少し悲しそうに言った。
「どんな幻覚だったの」
 伸也は心配そうに訊いた。
「いつもよく見る山の連なる風景なんだけど、人が居たの。今まで人を見たことはなかったのに、それがとても悲しかったの。理由は解らないけど、悲しみとかでは表現出来ないような感情だったわ。心が千切れそうな感じがして、気がついたら、涙がぽろぽろこぼれていたわ。でも後へ引きずることは無くてね、あんなに涙を流していたのに、覚めた後は爽やかな感じさえするのよ。だから幻覚になるときさえ分れば取り敢えず何とかなるんだけど、今日みたいに突然なのは困るわ、人とだっておちおち一緒にいられなくなったら嫌だわ。あ、ごめんね色々話して、私って変でしょう、今日はやっぱり動揺しているみたい」
「動揺しているのは俺も同じだけど、俺の何かが由美に影響したのかなぁ。今まで無かったことが俺とデートした日に起こったんだから」
 伸也は不安そうに言った。
「そうね、もしかしたらそうかも知れないわ。でもきっと悪いことじゃないと思う。人との出会いって不思議なのよね。どの人とも会うべくして逢ってるような気がするの。これはちょっと叔父さんの受け売りだけどね」
「そんな風に思ってくれると俺もちょっと嬉しい気がするよ。でもドクターには相談するんだろう」
「そうね、一応行ってはみるけどあまり期待しない。今までだって色々脳波を診たりして、結局のところ治療は眠くて頭がボーッとなる薬をくれただけよ。確かに幻覚は見なかったけど、そんなんじゃピアノは弾けないし何も楽しいこと無かったわ。伸也さんは診てもらわなくていいの?」
「行ってもきっと由美と同じだと思うし、独り言のことは気になるけど、でも今日のことは誰も信用しないだろう、それに由美には悪いけど結構気に入っているんだ、俺の幻覚というか何というか………由美のほくろは幻覚じゃないみたいだから、マインドムーブメントとでも言えばいいのかなぁ」
 伸也はそう言うと、窓から見える夜景に由美の美しい曲線を重ね合わせた。
「マインドムーブメント?精神の移動ってことよね。私は信じるわよ、今夜私の部屋に来たこと。でもこれからどうするつもり。どこかに発表でもするの?」
「今のところそんなつもりは全然ないよ。何かもっと大事なことがありそうな気がするんだ」
「大事なことって?」
 由美はソファーに横たえた体を少し起こすようにして聞いた。
「今は分からないけどでも感じるんだ。体の奥の方から何かが聞こえてくるようなそんな不思議な気がするんだ」
 伸也は由美の言葉を待ったが返答は無く、考え込むような声だけがかすかに受話器に響いている。
「どうしたの」
 と伸也が心配そうに聞くと、
「私もそうなんだわ」
 と由美がはっきりとした口調で言った。
「私の幻覚も体の奥の何かが知らせようとしているんだわ、きっとメッセージなのかも知れない。でも体の奥の正体が分からないの、自分のことなのに」
「メッセージってどういうこと?」
「よく分からないけど、ただそんな気がしただけ、でもどうにかして外へ出たがっている何かがあるの。それをメッセージと言えばいいのかは分からないけど、ほかに言いようがないの」
 由美は話しながら、もやもやしたものが少しずつはっきりしてくるように思えた。
「外へ出たがってる………分かるような気がするよ、俺もそんな感じなのかも知れない」
 伸也は何か納得できたような、腑に落ちたような気がした。そして急に窓の外に浮かぶ夜景がぼやけ、焦点を合わせるのが辛くなってきた。
「もう寝ようか、頭がぼんやりしてきたよ、明日は定時に出勤予定だからね。一応は」
「私は大丈夫よ、だって今日は凄い日なんだから。でもいいわ、その代わり明日もつき合うのよ。わかった?」
伸也は、
「ああ」
 と生返事をするとそのまま横になった。たった一日のことだが途方もない時間が過ぎてしまったような気がする。そして自分がまるで生まれ変わったような気がした。

 翌日、由美は伸也よりも三十分程早く叔父の店Mについた。客のいない店内にポール…チェンバースのベースが重苦しく響き、フランス煙草の香りが漂っている。カウンターに座った由美は、叔父の顔を見ると待ち切れないように昨日の出来事を話し始めた。
源太郎はコーヒーを入れる手を止めると、
「それで、彼が由美の部屋にきたことがどうして分かったの」
 と聞いた。
「すぐ電話がかかってきて、話したの。私の行動をまるで見ていたように知っているし、部屋の中の様子も細かいところまで言えるのよ」
源太郎はコーヒーを由美のカップに注ぐと、
「うーん、俺がいくら変わっていてもその話がすんなり入る程の頭じゃないね。善良な大人ならその男には気をつけろと言うし、そうでなければ、うまいこと言ってモノにしてやろうと思うに違いないね」
「おじさんはどっちなの」
「騙す方に決まってるだろう、こんな人相でいい奴はいないよ」
 源太郎はそう言うと無精髭を撫でまわすようにした。
「叔父さんは信じてくれると思ったのに、まだ誰にも話してないのよ。叔父さんはこういう話好きでしょう、よく瞑想のことを話してくれたじゃない」
「あれは由美の病気にいいと思ったから勧めたんだよ。今の話は現実と幻覚の区別がつかなくなっているんじゃないかと思ってね、興味はあるけど由美には危険だと思うよ。せっかく特製のジャズ療法が効いてきたのに」
「区別がつかないって、私が?」
「それは何とも言えないけどね、でも彼も由美と似たような病気があるんだろう。その二人が意気投合してさ、幻覚か幻想か知らないけど、願望だって言うこともあるかも知れないし、とにかくそれで二人だけの夢の世界を作ってしまうってこともあるんじゃないかな。まぁ、それが恋って言うのかも知れないけどね」
 源太郎はそう言うとおどけて笑って見せた。真面目なことを言った後に見せる叔父の癖を由美は久しぶりに見た。
「私は恋をして舞い上がってる女なのね、そして愚にもつかない話の虜になってるって言いたいんでしょう、ちょっと今日のコーヒーまずいわよマスター」
 由美はそう言って叔父を上目で睨んだ。
「彼の精神が由美の部屋へ来たって言う話はよく分からないけど、恋は当たってるだろう」
 源太郎は由美の瞳の奥を優しく覗き込むようにしながら言った。
「そうね、ちょっといい感じだけど、でも舞い上がったりしてないわよ」
「はっ、はっ、はっ、わかったよ、何かリクエストある」
「今日は聴きに来たんじゃないのよ、彼とここで会う約束したの。構わない?」
「俺はいいけど、そう言うことは最初に言ってくれよ、いろいろ都合があるんだから」
「叔父さんがいろいろ変なことを言い出すからよ」
「じゃぁ、俺が彼の本性を見抜いてやるか」
「直接話せば叔父さんにも分かるわ、作り話でも二人の夢の世界でもないってことが」
 源太郎は、話しながらレコードのジャケットを何枚か手に取り眺めていたが、チャーリー・ヘイデンのクローズネスをターンテーブルの上に乗せた。重苦しいウッドベースをハープが挑発するように響いている。アリス・コルトレーンのハープシコードが由美の瞼を閉じさせ頭の芯が心地よく揺らぎ始めたとき、隣に人の気配を感じて目を開けた。
「待った」
 伸也はそう言いながら店内を見回した。
「少しね………なかなかいい店でしょう、待ってる間にあのこと話したけどいいよね。叔父さんを紹介するわ」
 由美はそう言うと源太郎に眼を向けた。源太郎は由美から伸也を紹介されると、
「平日はこの通り客は殆ど来なくてね、何にしますか」
 とオーダーを聞いた。伸也は疲れているせいかミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーが飲みたかったが、そんな注文をすると嫌がられるか、コーヒーの解説をされそうな気がしてつい、
「ブラックで」
 と言ってしまった。源太郎は無愛想に、
「はい」
 とだけ返事をすると黙ってコーヒーを入れ始めた。
伸也は由美から叔父のことをちょっと変わった人と聞いていたが、成る程と思い始めていた。源太郎はコーヒーが入るとオーディオの音量を少し絞り、
「三浦さんの話は由美から聞きましたよ、妙なことが出来るそうですね」
 と切り出した。
伸也は唐突な言い方に戸惑いを感じながら、
「ええ、まぁ………出来ると言うより出来ちゃったという感じなんです………同じことがもう一度出来るかどうかも分からないんですが………」
 としか言えなかった。
「体は自分の部屋にいて、でも由美の部屋に行って部屋の中を見て回ったって聞きましたけど。誰が聞いてもイカレタ話と思いますよ、三浦………伸也君だったね、君を見ると俺程イカレた奴ではなさそうだし、どうやったのか教えてくれますか」
伸也が口を開きかけると、
「イカレタはちょっと失礼よ、まだ会って十分も経ってないのよ」
 と由美が口を挟んだ。源太郎は、
「由美の彼なんだからいつもの調子でいいだろう、伸也君、俺の悪いのは口だけだからね」
 と言うと初めて笑顔を見せた。
「うまく説明できないんですが、以前はどんな幻覚を見るかなんて見当がつかなかったんです。でも最近はとにかくそのときに見た幻覚の世界を冷静に観察するようにしていたんです。そしたら今まで押し寄せてくるような感覚が少し変わって、たまに自分から手を伸ばすように視野が広がることが出てきたんです。それからだんだんにコントロールしやすくなってきたんです。それで由美さんに出会って冗談半分に由美さんをイメージしたら行ってしまったというか、出来ちゃったんです。最初は現実には無い由美さんの部屋を頭の中で創り出して見たんだろうと思ったんですが、電話で確かめると本物の由美さんの部屋を見たとしか言えないほど全てが一致していたんです」
 伸也はそこまで話すと何か悪いことでもしたようにうつむき加減でコーヒーを口に運んだ。
「肝心なところがよくわからないなぁ、イメージするだけなの?」
 源太郎は伸也の説明に不満気に言った。
「特に難しいことは何も無いんです。ただ眠り始めるときに完全に眠ってしまわないように少し注意していればいいんです。フッと体から重さが無くなってしまうように感じ始めたときに、閉じた瞼の奥を見るようにするんです。視野の奥に光が動いているように見えたら、その光の中へ頭から入っていくようにイメージして、そのときにほんの少しだけ由美さんの姿を思い浮かべて、∧行く∨と決めればいいんです。そしたら本当に行ってしまったんです。必死になって努力したわけでもないし、ほんの軽い気持ちだんったんですが、もしかしたらその軽い気持ちが却って良かったような気がします」
「伸也君を信用しない訳じゃないけど、そんな簡単だったら誰でも出来るだろう、そしたら世の中とんでもないことになってるんじゃないの」
 源太郎はまだ不満気だった。
伸也は源太郎に頷きながら、
「僕もそう思うんです。僕に出来たんだから世の中に出来る人は沢山いるはずなんです」
 黙って聞いていた由美が、
「本当は私も試してみたの、色々とね。でも駄目だったわ。伸也さんは特別なのよ」
 と羨むように言った。
源太郎は、
「いくら聞いても信じられるような話じゃないけど、君が嘘を言ってるようにも思えないし………幻覚はいつ頃から見るようになったの」
 と聞いた。
「今のような幻覚は就職してからですね。でも子供の頃から金縛りといわれるようなことは頻繁にあったし、親父に仏壇に置いてある水晶玉と毎日にらめっこさせられたんです」
「水晶玉?あの占い師が使うようなものなのかい」
 と源太郎が呆れたように尋ねた。
「ええ、そのものです。とにかく見ろって言うんです。時々、何か見えるか? と言われて期待に応えようと真剣に見つめていたんです。次の日に鳥の飛ぶのが見えるようになりました。親父は何処へ飛んでいくのかよく見ろって言うんです。こんなことを毎日させられていました」
源太郎は首を傾げるようにしながら、
「仏壇に水晶玉も変わってるけど、親父さんも面白い人だね。で、その親父さんの仕事は何なの」
「建築の設計をやっています。多趣味な人なんですが、息子から見ても変なことばかりに手を出してお袋はいつも呆れているようですね」
「設計屋さんか、それじゃ水晶玉とはあまり関係なさそうだね」
 由美は源太郎を睨みながら、
「もうそのぐらいにしたら、まるで取り調べみたいよ」
 と言うと、源太郎は由美と伸也を見比べるようにしながら、
「伸也君の正体は不明だね、何度も店に来てもらわなくちゃいけないなぁ」
 と笑いながら、
「もう一つだけ聞いていい」
 と伸也を見た。伸也が、
「いくらでもいいですよ」
 と応えると、
「どんな風に見えるの、その、由美の部屋の様子が………テレビの画面のようにはっきり見えるの」
 と聞いた。
伸也は思い出すようにしながら、
「普通って言えばいいのかなぁ、夢で見る世界だってどんな変わった状況でも現実感はあるでしょう。あれと同じでそこに自分がいるんです。感触ははっきりはしないけどあるような気もしたし、香りははっきり感じました。それと、少し明るすぎる感じがありました。光の粒子が飛び跳ねているというか、もしかしたら肉眼よりも詳しく見えるような気もします。その気になればどんどんズームアップ出来そうでした。それが少し違うような気がします」
 源太郎は伸也のカップにコーヒーを入れると、
「人間は分からないことが多すぎるね、伸也君もそう思うだろう………」
「そうですね………自分の正体を知りたい気がします」
 源太郎は、
「自分の正体を知ってるなんて奴がいたら、そいつはかなり怪しい奴だね」
 と言うと、
「ここでは滅多にかけないが、君にいい盤がある」
 と竹満徹をかけた。今まで聴いたことのない種類の音楽だった。眼を閉じて聴き始めると、幾つもの音が体の中心部に向かって恐ろしい程の速度で突き進んでくる。そしていとも簡単にあらゆる心の断片を串刺しにし、なぶるように弄んだり、或いは極上の安らぎを与え深い余韻を残し消えていく。伸也は途中で何度も眼を開けたい衝動に駆られてしまった。それは幻覚を見ているときの安らぎや満足感、そして不安、それらが思い出され重なり合ってきたからだ。何という音楽だろう! 伸也はこの音楽を作った竹満と言う人も幻覚を見ていたに違いないと思った。
 眼を開けるといつの間にか常連らしい客が二人来ていた。伸也と由美が店を出ようとすると源太郎が声をかけ、ここに電話するようにとメモをくれた。
「俺の学生時代からの友人で民族学の学者だ。どこでどう転んだか、シャーマンに深入りして今は瞑想とか幻覚とかの研究をしているよ。学会での評判は悪いらしいが、優秀な奴だからきっと何かの役に立つと思うよ。奴も喜ぶから電話してやってくれ」
そう言うと源太郎は、
「由美は我が儘で手強いぞ」
 と軽く手を振った。

 伸也は大通りまで由美と一緒に歩いた。人通りは少なく街路樹の間を抜けてくる風が冷たい。両手をポケットに入れて歩く肩と肩がぶつかり合う。
「部屋まで送ろうか」
 と伸也が言うと、
「有り難う、でもタクシーで帰るとすぐだから………」
 と少し甘えるような声で言った。伸也は黙って頷くとそのまま歩いた。
「ねえ、こんなカップルってあるかしら。二人とも幻覚を見るなんて………しかも伸也さんはとても不思議なことが出来てしまうのよ。私、自分でもまだ信じられないわ」
「俺も同じ気持ちだよ、自分でもよく分からないし、正直言って不安なんだ」
「叔父さんの言ってた人に電話するの?」
「医者に行くよりいいかも知れないって気がするよ」
「私も一緒に行ってもいい」
 伸也は、
「いいよ」
 と応えると通りに向かって手を挙げた。タクシーが止まると由美は、
「今夜来ていいわよ」
 と言うと車に乗り込んだ。伸也が何か言う前に、
「体は駄目よ」
 と悪戯っぽく笑って言うとドアーがバタンと音を立てあっけなく発車していった。後部座席で小さく手を振る由美が車の流れに吸い込まれ見えなくなった。どこからか竹満という人の音楽が聞こえてくるような気がする。あの人はどんな幻覚を見たのだろうか。灼熱の火星から地球を見たのだろうか。それとも宇宙空間を漂いながら塵の中に生命の起源を見つけたのだろうか。或いは深い海の底で闇の中に生きる命の営みを見たのだろうか。歩道に刻まれた升目を踏みながら頭の中で、竹満、民族学、シャーマン、由美と繰り返した。


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