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第1章05 [メロディー・ガルドーに誘われて]

 タクシーは繁華街を抜けると、閑静な住宅街に入った。路地を幾つか曲がり、突き当たりになった場所で止まった。正面に古そうな土塀で囲まれた二階建ての家が見える。近くに高い建物は見当たらず、低層住宅ばかりでどの家も古めかしい雰囲気を漂わせている。最近のモダンな建物はなさそうだ。タクシーを降りると紗羅は店主よりも先に歩いて古風な門をくぐった。玄関まで数メートルあるが、その途中には立派な松の木が待ち構えている。歌舞伎町から数分移動しただけなのに、まるでタイムスリップしたような気分だ。祐介は自分がまんまと女の仕掛けた罠に引っかかってしまった愚かな生き物のように思えてきた。郊外のマンションで両親と暮らしてきたから、都内の古風な一軒家は未知の世界だし、そこに住んでいる人は人種が違うような気がする。立派な門構えに大袈裟に見える玄関扉の威圧感に押し潰されそうな気分だ。祐介は餌食になっても構わないと覚悟を決めて扉の前に立った。餌食になっても中に入ってみたいという好奇心が勝っている。
 紗羅は自分のリュックを下ろすと、中から鍵を取り出して扉を開けた。まるで自分の家のように振る舞っている。乱暴に靴を脱ぎ捨てて上がると、廊下を大きな音を立てて歩いて行く。その後ろを店主と祐介が大人しく付いて歩いている。広いリビングに大きなソファーがある。紗羅は照明のスイッチを入れ、冷蔵庫に直行すると中からビールを取りだしてテーブルの上に置いた。慣れたいつものルーティーンのようだ。
「飲むわよ」
 紗羅が威勢よく言うと、
「俺はシャワーを浴びるよ、まぁ、適当にやってくれ」
 店主はそう言うと、二人を残して部屋を出て行った。
「ちょっと待ってよ、カズ!」
 紗羅は店主の後ろ姿に叫んだが、無視するように廊下の奥に消えた。ちょっと困ったような顔を見せた紗羅は、その表情を隠すように缶ビールを手に取って開けた。
「ごめんなさい、まだ名前聞いていなかったですよね」
 紗羅は急に酔いが醒めたように真顔で訊いた。店でもタクシーの中でもまともに顔を見なかったし、話もしなかった。祐介は紗羅の変わりように途惑いながら名前を教えた。
「谷野祐介さんね、三十二歳なら年上よね。失礼な口の利き方してごめんなさい」
 紗羅はそう言うと、缶ビールを祐介の前に置いた。
「カズ、意地悪だわ。私を困らせようとしてシャワーを浴びに行ったのよ。きっとそうだわ。私が人見知りなの知っているくせに。そう思わない?」
 紗羅は祐介が昔からの知り合いのように話した。祐介が返事に困ったようにすると、
「そうだわ、わかるわけないよね、もう私ってどうしたのかしら、今日は変だわ」
 紗羅はそう言うとビールを口に流し込んだ。

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第1章06 [メロディー・ガルドーに誘われて]

「マスターはカズって名前なんですか? それに紗羅さんって名前ですか?」
 祐介が訊くと
「そうよ、小林和己だからカズって呼んでる。六十五歳の年寄りよ。私は山辺紗羅って言うの、よろしくね。それから敬語はなしね」
 紗羅は、自分のことを人見知りだと言った割にはフレンドリーだ。
「親子? それとも親戚か何か?」
 祐介が訊くと、
「親子でも親戚でもないわ、赤の他人よ。でもね、父親みたいなものかしら。私が勝手にそう思ってるだけかも知れないけど。私の父の親友なの。父は小学校の時に亡くなったの」
 紗羅はそう言うとまたビールを口に流し込んだ。
「父親の親友なのか……それにしても仲がいいね。親子みたいだよ」
 祐介はそう言ってビールを一口飲んだ。
「そうね、カズは私のこと娘って思ってるかもね。だから私、我が儘になったのかしら」
 紗羅はそう言って笑った。祐介は親しげに話す紗羅を見ながら、遠いどこかで一緒に暮らしていたような気がした。瞳の奥を覗き込んだときに、心のどこかを締め付けられるような懐かしさを感じたのだ。紗羅も同じように祐介に惹かれる何かを感じたのだろうか。そうでなければ、酔っ払っていたとしても、ここまで連れてくることはないだろう。
 紗羅は大学の友達と三人で近くの居酒屋で飲んだ帰り道だった。定職にも就かず、恋人もいない紗羅を心配して飲み会をするというのが、仲間が集まる口実として定番になっている。実際のところは恋人の居ない紗羅が恋愛のアドバイスをして、最後は二人を元気づけてお開きになるのだ。
 今日もそうやって二人を励まして帰し、ビザールにやって来た。ビザールは紗羅が最後に行き着くところで、誰にも教えていない場所なのだ。カズも紗羅のことをわかっていて、余計な言葉をかけたりしない。紗羅の自由にさせている。
 店に入ると一番奥に男を見つけて紗羅は少し慌てた。終電を過ぎてこの店に客がいることは滅多にないからだ。しかも紗羅のお気に入りの場所に座っている。自分が見られたことに気づくと、俯いたまま奥に進み、横を通った瞬時に全てを観察し終えた。紗羅の判定は合格だったが、あくまでも見た目と醸し出している雰囲気だけだ。紗羅はこの雰囲気を感じ取る能力に優れていて、友達も時々紗羅を恋人に会わせて意見を聞くことがある。そこでアドバイスしたことはたいてい当たることが多いから友達からは信頼されている。ただし、当たるのは客観的に見ることができる相手だけで、自分の恋人となるとまるで盲目同然になって失敗ばかりしているのが紗羅なのだ。最後の恋からもう二年ほど誰とも付き合っていない。

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第1章07 [メロディー・ガルドーに誘われて]

 祐介は今までに出会ったことの無いタイプだった。感覚の鋭さには自信があったが、こんなにも瞬時にわかることがあるのだと、少々不思議に思った。それはタイプというよりも質感なのだろうと紗羅は席に座って考えた。紗羅の三メートルほど隣に眠そうに座っている男の何かが紗羅の席まで漂ってくるような気がする。祐介がタバコに火を点け、天井に向かって大きく煙を吐き出した。紗羅は視野の端で祐介が煙を吐き出すときの唇の動きから、タバコを持つ手の動きまで漏らさず観察している。時々酔った振りをして身体を揺らしたり、眠そうにして見せた。祐介が時々自分の方を見ることに気づいたからだ。タバコの煙も漂ってくるが、それ以外の小さな粒子が祐介の皮膚から放出されているに違いない。その粒子が紗羅の皮膚から吸収されて、体内のどこかで精密に調べられるのだろう。その結果が合格と判定されたのだ。
 紗羅は壁に身体を預けるようにして目を閉じた。判定結果をもう一度丁寧に反復して味わい確認するためだ。閉じた視野の中で隣の男は紗羅に話しかけてきたが、会話は途切れて沈黙してしまった。紗羅に会話の糸口が掴めなかったのだ。もう一度シミュレーションをやり直したが上手く話せない。何度シミュレーションを繰り返しても男との会話は途切れてしまい、とうとう眠気に負けてしまった。
「無理だね、産めない」
 紗羅の耳に突然襲いかかってくる無機質な男の声。紗羅が一番心地よく眠ろうとするときに限って、深い心の闇から突如として現れ耳元で囁くのだ。それは繰り返し繰り返し、紗羅の首をゆっくり締め上げる。
「無理だね、産めない」
 絶望の淵へ突き落とす無情な声が鼓膜を震わせる。紗羅の頬を伝う涙は幻なのか現実なのかわからない。すでに感情は麻痺しているのに涙腺だけは敏感に反応している。紗羅がいくら涙を流しても何も洗われないし、何も流されない。いつまでも涙腺の奥に涙のしこりが残っている。
「飲むと騒ぐみたいなの、何か言ってた?」
 紗羅は訊いた。
「涙を流しながら何か言ってたかな。ボーカルが大きくてよくわからなかったよ。その後でマスターが来て何か話してたよね」
 祐介は店内での様子を思い出しながら話した。
「そこからは覚えてるわ。私のせいで祐介さんが巻き添えになったのよね。迷惑だった?」
 紗羅は悪戯っぽく笑って訊いた。

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第1章08 [メロディー・ガルドーに誘われて]

「こんな時間に歌舞伎町に放り出されても行くところ無いしね、助かったよ」
 祐介も笑いながら応えた。本当は涙のことを訊きたかったが、そこまで踏み込む勇気はなかった。
「カズはね、あんまりここに連れて来たくないみたいなの。いつも朝になってからお母さんに連絡して怒られてるからね。私が連絡しても、カズに代われって言うの。まぁ、カズのところならお母さんも安心するみたいだけどね。普通は「娘が迷惑をかけてすみません」と謝るはずなんだけどさ、私のお母さんはそんな常識はないの。だから本当はカズがかわいそうなんだけど、でもカズはね、まんざらでもなさそうなの。きっとカズはお母さんが好きなんだと思うわ」
 紗羅はそう言ってまた笑った。
「昔からの知り合いなの?」
「そうね、生まれたときからの知り合い。だってね、私が生まれたときに病院に来たのは父じゃ無くてカズだったんだからね。父はどうしても仕事が抜けられなくて、それでカズに頼んだの。私が鳥だったらカズを父親だと脳に刷り込んだわね。そんな調子だから、父親参観日なんかもカズが来てくれたのよ。担任の先生は卒業するまでカズが父だと思っていたみたいなの。父はあまり話さなかったけど、カズも色々あったみたいなの。だからお互い様って感じらしい。カズは酔うとね、父に助けられたって言うことがあるわ。まぁ、そんな感じでね、父が亡くなってからは母も私も助けてもらったわ。こんなだけど本当は感謝しているつもりなのよ。いつも私の我が儘ばかりだけどね」
 紗羅はそう言うと、
「祐介さんのこと何か教えて」
 とビールを勧めた。
「俺は何もないよ。この年で失業中だからね。実家暮らしだから食うには困らないけど、将来性はどう見ても心細いかな」
 祐介はそう言うとビールを喉の奥に流し込んだ。
「なんだ、二人とも無職かぁ。似たもの同士ってことね。なんかね、シンパシーを感じたのよね」
 紗羅は嬉しそう言った。
「紗羅さんも?」
 ずっと無職では無いけどね。時々バイト生活よ。まぁ、三ヶ月ほど続いたらいいとこね。それでしばらく休んでまた別のバイトを探すわ。私も母と同居だからなんとか暮らせるの。今は無職中よ。それじゃぁ、無職に乾杯!」
 紗羅はそう言ってコップを祐介の前に突き出し、祐介も紗羅のコップにカチンと当てると一気に飲み干した。それほど酒は強くないが、紗羅の持つ雰囲気が心地よくて酒が進んでしまう。奥の方から足音が聞こえてくる。マスターが風呂から上がったようだ。

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第1章09 [メロディー・ガルドーに誘われて]

「楽しそうにやってるな、俺も入れてくれよ」
 汗を拭きながらコップを手に持ちやって来た。マスターにはまだ名前も言っていないのにもう旧知の仲のように接してくれる。祐介はマスターに向き直り、簡単に自己紹介とお礼を言うと、
「いいよ、いいよ。紗羅が気に入ったんだから間違いはないよ。飲もう、飲もう」
 と、威勢よく肩を叩かれた。
「谷野祐介君か、ジャズは好きかね」
 カズが祐介の顔を覗き込むようにして訊くと、
「好きなんて言ったら大変よ、朝まで聴かされるからね」
 と紗羅は祐介が返事をする前に予防線を張った
「まぁ、時々聴く程度です」
 祐介が二人に気を使って返事をすると、
「そうか、それならジャズの定番から始めるとするか」
 カズはそう言うと棚にあるレコードを選び始めた。
「今日は飲むんだからね、ジャズはこの次よ」
 紗羅が言うと、
「かけるだけだからさ、何も講釈しないからいいだろう?」
 カズはそう言いながらも次々にレコードを取り出して選んでいる。
「じゃぁね、楽しいのにしてね、重苦しいのは勘弁よ」
 紗羅が言うと、
「重苦しいなんて言うなよ、重厚とか、魂を揺さぶるとか言って欲しいね。祐介君もそう思うだろう?」
「ええ、まぁ、そうですね。バラードも好きです」
「それはいいね、決まりだな。コルトレーンのバラードにしよう」
 カズはそう言うとターンテーブルに盤を乗せ、慎重にアームを動かした。店に置いてあるスピーカーも堂々としていたが、このリビングのスピーカーも相当年季の入った趣のある代物だ。アンプも年代物で、真空管が何本もむき出して立ち、下の方がほんのりオレンジ色に光っている。
「紗羅さんもジャズが好きなの?」
 祐介が訊くと、
「そうね、父も好きだったからね、子どもの頃からいつも耳に入ってたかな。だからジャズは生活音みたいなものね」

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第1章10 [メロディー・ガルドーに誘われて]

 そう言うと、紗羅はスピーカーから出てくる音に耳を傾け、ゆったりした動きで身体を揺らし始めた。祐介もサックスの包み込むような音色に身を委ると、それは心地よくて、ここでどんな罠にはめられたとしても構わないと思えてくる。近代的ということから取り残された、昭和の息づかいそのままのリビングが、サックスの音色でセピア色に染まってくる。祐介もその中で何かしらの色に染まってくるのを感じた。
「ビザールはよく来るの?」
 紗羅が訊いた。
「いや、初めてだよ。好きな曲が聞こえたから入っただけ。中に入ったら自分の居場所を見つけた気がしたよ。仕事も生きがいも恋人も夢も希望もね、何もなくても気持ちを満たしてくれそうな気がしたんだ」
 祐介は紗羅の、少し赤くなった顔を見ながら言った。
「それで、満たされたのかしら?」
 問いかける紗羅の目が酔っている。
「どうかな、いいところで騒ぎ出した客がいたからね」
 祐介が笑いながら言うと、
「それなら、飲まなくちゃ」
 とカズが話に割り込み、祐介と紗羅のコップにビールを注いだ。
「祐介君は何もなくて空っぽなんだな、いいことだ」
 カズが嬉しそうに言った。
「その言い方はちょっと馬鹿にしてない?」
 紗羅がカズを横目で睨むようにして言った。
「馬鹿になんかするもんか、ガラクタ集めていっぱいにするよりは空っぽの方がいいに決まってるさ。祐介君もそう思うだろう?」
「手を振り回したときに何か掴めれば、ガラクタでもそれだけでしばらく生きられそうに思うけど、でも気休めかな」
「その通り! 気休めだね」
 カズはまた面白そうに笑って言った。
「楽しかったらさ、気休めでも、なんでもいいじゃん」
 紗羅が言うと、
「人生、気休めの連続で終わっちまうね。気がついたら俺みたいに頭が禿げちまう」
「私はそれでもいいわ。人生は気休めよ、それで一生過ごせたらラッキー!」
 紗羅が嬉しそうに言った。
「今日は人生論になっちまったぞ。祐介君にガラクタ人生論を教えてもらおうか」
「俺に人生論なんか無いかな、無職のパラサイト・シングルだからね。夢も希望も無いのは当たり前で、そんなものあったって幻みたいなものだよ、何も満たしてくれなかった」
「おぉ、ますます祐介君はいい男になってきたね。最高だね」
 そう言うと、カズは祐介に酒を勧め、テーブルの上には見たこともない古そうなウィスキーが数本並んだ。ラベルを読むとボウモアとかバランタインとか書いてある。国産は山崎だけだ。カズの講釈では、山崎が年代物でこの中では一番高くて数十万するらしい。

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