予兆(6) [小説<物体>]
予兆(6)
黒い瞳に浮かべている憂いはとても子どもとは思えず、俺の手の届かぬところにいるように感じる。これほど美しく哀しい瞳は見たことがない。孤独の気高さと哀しさが瞳の奥で小さな光となり、その光がマー君の全身を包み込んでいるようだ。きっと俺の言葉はマー君の心の頂には届かないだろう。遙か下界を虚しく響き渡るだけだ。
俺は黙って台所に行くとコップに水を一杯注ぎ、黙ってマー君の手に握らせた。俺に出来ることはこれくらいしかない。黙って飲み干すマー君を見ていると、遠い記憶の中からセピア色の風景が浮かんできた。
お爺ちゃんがそこにいる。余命僅かと聞き、母親に無理矢理見舞いに行かされたのだ。中学生になってからはもう二年ほど顔を見ていない。病院は退院していたが、それは死を待つだけの退院だった。ちょうど今と同じ桜の散る頃で、縁側に腰を下ろしぼんやりと空を眺めていた。風に吹かれて隣の家の桜が舞っている。お爺ちゃんは桜の花びらの行方を追っているように見える。どんなに高く舞い上がった花びらもやがては地面に落ちてその動きを止め、動かなくなった花びらを黙って見つめるとまた空を見上げ花びらを追っている。何度も何度も同じ事を繰り返し、そして空を見上げなくなった。自分の膝の上に乗った花びらを見つめている。俺は、黙って目を閉じたお爺ちゃんの目から涙が一粒光るのを見た。
「人には誰にも言えんことがあってな……」
隣に俺がいたことを思い出したように言うとまた、空を見上げて花びらを追った。きっと涙が溢れそうになったに違いない。俺にはそう見えた。あの時も俺は黙って立つとコップに水を入れて持ってきた。お爺ちゃんは何かを洗い流すかのように水を飲み込んだが、それは祈りのように思えた。
「ありがとう」
マー君はあの時のお爺ちゃんと同じように言った。八十歳の老人と五歳のマー君が二重写しのように見える。
「人間は嫌われているんだ、僕はパパもママも太田さんも好きなのに。きっと沢山の人が死んじゃう」
マー君はそう言って立ち上がるとベランダから辺りの景色を眺め始めた。祐子と俺は慌ててマー君の後を追い、
「一体どうしたの?」
と祐子が訊いた。
「もう駄目だって、これ以上駄目だって、だから……」
マー君は声を震わせながら言った。
「何が駄目なの?」
祐子が訊くと、
「僕にはわかんない、でもみんな居なくなっちゃうんだ」
そう言うと祐子にしがみついて泣いた。
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