予兆(3) [小説<物体>]
予兆(3)
それは午後二時を過ぎた頃で、珍しく岡本設計部長がやって来て仕事上の細かな指示をしていた。通常は課長が行う内容だが、その物件には相当神経を使っているらしいことが聞いていて伝わってくる。指示を聞いているのはその物件のチーフデザイナーの川端さんで、その隣で課長がメモを取っていた。川端さんの設計デスクは窓を背にした位置にあり、俺のデスクはそこから三メートル程離れ、川端さんと向き合うような位置にある。部長は腰を屈め図面を指さしながら話しているが、時々大きな声を出し川端さんを叱責しているのが分かる。部屋の誰もが聞き耳を立てているが、誰も窓の方に顔を向けようとする者はいない。俺も皆と同じように下を向いていたが、電話を取るために顔を上げると、川端さんの横をソフトボールくらいの大きさの光る玉がゆっくり横滑りするように動いて消えた。おそらく俺にしか見えていないだろうと思う。光る玉と言ってもそれは限りなく透明に近く、はっきりと境界線があるわけではない。今まで見たことが無く気のせいか、俺の体調に問題があるのかと思ったがしかし、決して不快な感じはない。何か心を奪われるような感じでもう一度見たいと思った。
部長の叱責はしつこく続き、人のいい川端さんの声はもうほとんど聞き取れないほど小さくなっている。仮にチーフに落ち度があったとしてもやり過ぎだと思い時々チラチラと様子を窺い始めると、見る度に光る玉が見える。俺が見るから現れるのか、見ない間も出ているのか分からないが、気が付き始めると驚くほど見えるようになった。一つ見えたかと思うと、一つ目が消える前に次の玉がフラフラと現れる。部長の話はもうほとんど耳に届かず、光の玉を見ることが関心事になった。
玉を見ることに飽きかけた頃ようやく部長はチーフを解放した。部長が去った後で課長も何事か言っていたが、やはりチーフは頭を何度も下げるだけで声はほとんど聞こえない。部下のいる前であの叱責は通常考えられないが、何かの思惑があるのかも知れない。
チーフの落ち度は俺たちにも責任があるかも知れず、チーフの声を待ったが何も言わず黙って図面を睨んでいる。俺から声をかけようかと思い顔を上げると、チーフの身体の輪郭が少しずれたように見え、等身大の透明の身体がふわりとチーフから浮き出たのだ。そしてあっという間に横に流れるように消え、次の瞬間、ガタンと音がしてチーフの身体がデスクから消えた。
崩れるように床に落ちたチーフは唇と額から血を流し、呼びかけても返答がない。すぐに救急車を呼び搬送したが意識は戻らず、命は取り止めたものの、今もまだ集中治療室で安静状態が続いている。
病院で奥さんに引き継いでから、今日の午後のことを思い返してみると、あの光の玉は生気のようなものではないかと思えてきたのだ。自分の中で感覚がより先鋭的に進化しているように思う。一つの感覚が目覚めるとそれを手がかりのようにして、今まで見慣れた当たり前の景色がまるで別のように見えてくる。病院から戻り落ち着いて周りを見ると、誰しも生気を出したり入れたりしているのが見えてきた。限りなく透明に近いことは変わらないが、その形や現れ方も人によって少しずつ違うことも分かった。そしてあの等身大の生気は命に関わるような状態の時に現れるのかも知れない。
マー君にも俺のように生気が見えているのだろうか、それとも俺とは違う何かが見えているのだろうか。マー君の変化以上に俺の変化も大きい。
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