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第1章01 [メロディー・ガルドーに誘われて]

          「メロディ・ガルドーに誘われて」
 祐介が久しぶりに新宿の街にフラリとやって来たのは特に理由があるわけではない。仕事を辞めて暇になっただけのことだ。次の仕事がある保証は何もないが、多少の貯蓄と失業保険を貰いながら次の仕事をのんびり探せばいいと気楽に考えている。
 東口から歌舞伎町に向かって数分ほど歩いた頃だ。聞き覚えのある歌声が地下に続く階段から漏れてくる。メロディ・ガルドーのようだ。その薄暗い階段の脇に〈ジャズ・ビザール〉と書いた看板が出してある。これだけでは地下に下りようとは思わないが、歌声に引きずられるように階段に足を踏み入れてしまった。
 身体を横にしないとすれ違うことはできないだろう階段を降りると木製のドアがある。小さな覗き窓があり、その横に小さく全席喫煙とマジックで書いてある。祐介にはありがたいが、今時こんな店があるのかと不審に思う。中を見ると薄暗い室内に人がいる気配はない。歌声がドアに響いている。ゆっくりドアを押すと心地よいウッドベースのリズムが迎えてくれる。店員らしき人影もなく、小さなテーブルとセットで心地良さそうな椅子がたくさん並んでいる。細長い室内の一番奥にカウンターが有り、覗き込むように見ると中年の男の人が小さく頭を上下に動かした。そのカウンターの左右に大きなスピーカーが幅を効かせている。音楽は個別にイヤフォンで聴くものだと思っていたが、この店ではどうやら一つの音を客全員で共有するシステムのようだ。祐介はスピーカーから一番遠い端の席に座った。今まで見たことのないスピーカーで、ただの四角い箱ではない。まるで蟻地獄のようにすり鉢状になっている。その一番底の部分に大きなスピーカーが取り付けられている。正方形の箱の一辺は一メートルくらいはありそうだ。この箱の上にはトランペットの先だけのようなホーンが乗っている。マスターの後ろにはアンプと思われる装置が青い光を出していて、これだけでも相当迫力のある景色だ。
 椅子に座ると正面から音波が押し寄せてくる。何度も聞いたあの歌だが、イヤフォンの音とはまるっきり別物だ。音は生き物のように祐介の周囲を飛び跳ね、貫いてくる。まるで音の怪物に蹂躙されているような気がする。音楽は肌と骨と内蔵で聴くものだと感じる。この場所に座ると、鼓膜で聞こえる音などたかが知れているような気がした。
 歌が終わるとマスターが黒表紙のメニューを持ってやって来た。六十過ぎの髪の毛が薄く富士額になっている痩せた男だ。メニューを開いて渡してくれたが、書いてあるのはコーヒーと緑茶に紅茶の三種類だけだ。コーヒーを指さすと黙って頷きカウンターに戻った。
 歌舞伎町の近くで金曜の夜十時だというのに客は祐介一人だ。まるで異世界にタイムスリップしたような気分がする。確かにこの階段を下りるまでは、耳を覆いたくなるような騒音に晒され、ケバい服装の歳のよくわからない女や酔っ払いを避けるようにここまで歩いてきたのだ。祐介は地上へ繋がっているドアを眺めながらタバコに火を点けると次の曲が聞こえてきた。またジャズボーカルだ。煙が天井のスポット照明に向かって揺らめきながら登っていく。その煙を見送ると金属製の薄っぺらい灰皿にトントンと灰を落とした。

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