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第2章 8 [メロディー・ガルドーに誘われて]

 ビザールの前に古そうな黄色の車が停まっている。ハザードランプを点けているから紗羅かも知れない。見たことのない車だ。運転席を覗くとやはり紗羅がハンドルを握っていた。
「すごい車だね。見たことないよ」
「カズはね、貸すのを嫌がったけど店を手伝うって言ったら貸してくれた。祐介さんも帰ったら働くのよ」
 紗羅のペースに少々呆れたが、しかし悪い気はしないのが紗羅の不思議なところだ。しばらく就職するつもりはないし、面白そうだから紗羅の提案に従うことにした。
「なんていう車?」
「いすずの117クーペよ。デザインが日本人離れしているでしょう。有名なイタリア人デザイアーの作品。カズが若い頃に手に入れて大事にしているけど、最近はほとんど乗っていないみたいね。オーナー会ぐらいかしら。でもメンテは完璧、エンジンは快調よ」
 そう言うとエンジンを吹かした。最近の車にはない心地よい音が響く。
「運転できるでしょう、百キロで交代ね」
 そう言うと紗羅はサングラスを掛け、
「どの道で行く?」
 と訊いた。
「太平洋側がいいね」
 祐介は、太平洋側の気持ちよいドライブコースを思い浮かべた。今の時期なら桜の開花を見物しながら西に下ることができるだろう。高速には乗らず、一般道のみのドライブなので時間は高速の倍近くかかるが、その方が寄り道も出来るし、楽しそうに思える。
 紗羅は百キロで交代と言っていたが、多摩川を越えた辺りで祐介に交代となった。エンジンの調子は良いが、実際に運転となると、相当疲れてしまう。クラッチとギアー操作が煩雑で、しかも旧車のクラッチペダルはかなり重い。渋滞で紗羅の左足が音を上げ祐介に交代になったのだ。しかし祐介もマニュアル車は教習所以来だから、ぎごちない発進を数回繰り返してようやくスムーズに動かせるようになった。紗羅の運転で祐介は助手席で何度も右足を踏ん張り、祐介の運転で紗羅は身を乗り出すようにして前方を睨んだ。その緊張感がようやく緩み、時々見かける桜を眺める余裕も出てきた頃、祐介は気になっていたことを訊いた。
「どうして俺と一緒に田舎へ行こうと思ったの?」
「だって、不思議な話を聞いたのよ、真実を知りたいわ。友達の慎太郎君が実在するかも確かめたいし、好奇心プラス成り行きね。祐介さんはどうして断らなかったの?」
「雰囲気かなぁ、昔からの友達に誘われたみたいで、一緒に行くのが当たり前のような気がしたからだよ。紗羅さんのことは何にも知らないのに、全部知ってるような気がするんだよね」
「私の何を知っているの?」
 紗羅が笑って訊いた。
「何もかも知ってるけど、今は忘れて思い出せないだけ」
 車内に二人の笑い声が響き、恋人同士のようだ。二つの円が急速に接近し、重なり合ったところに濃密な何かが生まれようとしている。
 太陽が西に傾き、正面から遠慮のない光線が差し込んでくる。茜色に染められた紗羅の横顔は、祐介の知性では届かない世界を隠し持っているようだ。祐介は謎を秘めた横顔を何度も見た。
 やがて太陽は落ち、沈黙が二人を柔らかく包み始めた。沈黙はリトマス試験紙のように何かの反応を確かめようとしている。紗羅の左手が髪をかき上げ、胸を大きく動かし息を吐くと、祐介も同調するように大きく息を吐いた。祐介の反応は紗羅に伝わり、それが無限ループのように回転を始め、感情を緩やかに揺らし始めた。
「どこかで休む?」
 祐介が訊いた。
「そうね、少し足を伸ばしたいわ」
「わかった」
 祐介は当然のように小さく返事をすると、アクセルを少し踏み込んだ。遠くの方に街の灯りが見え始めてきたからだ。あそこまで行けば二人が足を伸ばして休めるところがあるだろう。遠くからでも目立つラブホの看板も見えてきた。静かに駐車場に滑り込むこともできるが、ホテルが近づくと少しスピードを緩めただけで何事もなかったように通り過ぎてしまった。次に見つけたホテルもやはり同じようにスピードを緩めただけで通り過ぎてしまった。やがて街の灯りが途絶え、道沿いの人家もなくなり暗い山道に入った。
「ちょっと怖いわ」
 紗羅はそう言いながら辺りを見回した。ヘッドライトの先は得体の知れない闇に包まれている。
「ああ、何か出てきそうだね」
 祐介はそう言うとルームミラーで背後を確かめた。
 上り勾配がきつくなり、道幅も狭くなってきた。
「大丈夫かしら?」
「この道幅じゃUターンも難しいなぁ」
「圏外だからスマホも使えないわ」
「これでエンジンが故障でもしたらお手上げだね、頼むよ」
 祐介はそう言うとハンドルを軽く叩いた。
「エンジンなら大丈夫よ、古い車だけどカズの整備は完璧よ」
「それなら安心だね、慎重に走ろう」
 祐介はカーラジオのスイッチを入れたが、電波状態が悪くてほとんど聞こえない。
「ねぇ、さっきホテルに入ろうと思った?」
「うん、ちょっと思った。よくわかったね」
「ホテルが見えてくると黙り込むし、入り口近くでスピード落としたよね、バレバレよ。年の割に純情なところは褒めてあげるわ」
 紗羅はそう言いながらくすりと笑った。
「なんだか緊張して損したなぁ、この次は大丈夫だから任せてもらおう」
 祐介は胸を張った。
「でもこの山の中じゃ無理そうね。少し眠ったら交替ね」
 紗羅はそう言うと、靴を脱いでリクライニングを倒した。そのままピクリとも動かず、暫くすると小さないびきがが聞こえてきた。
 出逢ってまだ四日目の紗羅という女が助手席で眠っている。祐介は時々紗羅の寝顔を見るが、どう考えても、自分には不釣り合いないい女なのだ。だけど違和感を感じない。それはビザールで話したときからそうだった。カズの家で飲んだときもそうだったし、草刈りをしたときも同じだった。まるで家族か兄弟のようで、同じ材料で作られているような気がする。二人の一部を切り取って混ぜればすぐに一つに混じってしまいそうで、祐介の本心は今すぐにでも紗羅を抱いてそれを確かめたい衝動に駆られる。紗羅はそんな祐介の本心を見透かして面白がっているようだ。
 祐介はハンドルの向こうの暗闇を見ながら、紗羅と出逢ってからのことを思い返した。ビザールへ行ったあの日の行動の小さなことも含めて、どんな些細なことも今に繋がっていたのだろうか。こうなる為にビザールへ行ったのだろうか。何かに手綱を引かれて京都へ向かっているのだろうか。そして一番の不思議は、あの思い出した記憶のことだ。あれからずっと考えているが、あれ以上は何も思い出せない。思い出した部分は鮮明なのに、それ以外の部分は欠片も見えないのだ。
 一時間ほど走ると突然道が広くなり、人家の灯りが見えてきた。このまま西に走れはコンビニくらいはあるだろう。疲労はもう限界に近く、目を開けているのがやっとで、腰も相当怠くなってきた。小さな集落をいくつか過ぎるとようやくコンビニの看板が見えてきた。ここで休まなければ確実に居眠り事故を起こすだろう。祐介は駐車場の端に車を停め、そのままリクライニングを倒すと急速に意識が遠のいた。

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